

2025年8月25日 №552
《7月参院選における「自民党大敗」について》
参院選の結果は自民党・石破政権の完全な敗北であり、戦後日本社会を支配した自民党政権破綻の象徴であり、それはとりもなおさず現代資本主義の崩壊である。歴史は激動しており、新しい時代、コミュニティ社会を目指して突き進んでいる
このような歴史がマルクス主義の復興を求めている。日本にボリシェビキ党を、真の革命的前衛党を建設せよ!
7月参院選において、自民・公明政権は、目標に掲げていた「50議席」を下回る「47議席」に止まり、「参院の過半数125議席」を割り込んだ。こうして、自公政権は、衆院に続き、参院でも少数政権に転落し、歴史的大敗・大惨敗を喫した。石破首相は「続投」を明言しているが、人民の怒りと党内対立はそれを許さないであろう。
衆参両院で過半数を割ったということ、それはそのまま自民党政権の否定であり、いわゆる議会制民主主義の破綻、否定である。労働者・人民は、そうした自公政権を許してはならず、今こそ労働者階級と人民は、持てる総力を結集し、政権を奪取しなければならない。現代はそういう歴史時代である。日本の野党勢力はその存在感と果たすべき使命が問われている。この度の選挙結果にもそれが表れている。
7月参院選における「自民党の大敗」は自民党とその政権崩壊の序曲である。これは度重なる自民党の裏切りに対する国民の反乱以外の何ものでもない。自民党の平井卓也広報本部長は、7月16日付読売新聞で次のように語っている。「衆院と参院で、自民党公明党が過半数を割るということは、政権交代前夜を意味する。しかし、自公よりも安定した政権が出来るような状態ではない。何も決められない国会、夜明けのない暗黒の時代が続くことになる」と。これは本当のことある。客観的には政権交代の前夜、しかし野党には存在感も力もない。党の歴史的危機に直面している自民党は強い危機感を持ってこれに対処している。
歴史は今、自民党のみならず、野党に対しても、厳しくその存在価値を問うているのである。
全ては歴史時代の産物である。国際的な現代資本主義の腐敗・堕落、崩壊という巨大な流れが日本にも押し寄せており、時代は新しい社会を求めて激動している。歴史、とりわけロシア革命から学び、今こそ、投票・選挙に代わる直接民主主義たる評議会を打ちたてよ。
現代資本主義の凄まじい腐敗・堕落、急激な崩壊が、アメリカにトランプ政権を再び誕生させ、あらためて新しい転換の時代の到来を告げた。そして、7月参院選の結果は、日本においても、いよいよ新しい時代が到来したことを教えている。日本人の主食であるコメ価格の前代未聞の暴騰は、貧困に喘ぐ日本人民の怒りに火をつけた。主食のコメが十分食べられないほどの物価高騰、ここに戦後日本資本主義・自民党政権の完全な破綻、崩壊がある。この「米騒動」は偶然起こった現象ではない。現代日本の資本主義は国民に十分コメを食べさせる力、統治能力を完全に失ってしまった。もはや現代資本主義には人類社会を豊かにする能力はない。資本主義の時代はもう終わったのである。
では、大激動を通じて次にやって来ようとしている新しい時代、新しい社会とは何か。それは議会制民主主義ではなく、真の民主主義、直接民主主義としての評議会による共同体的コミュニティ社会である。
人類は、幾多の経験を通じて必ず到達すべき地点に到達していく。
最近の経験としては「アラブの春」がある。エジプトでは2011年2月に「アラブの春」と呼ばれた民主化運動がおこり,ムバラク軍事政権が倒され、2012年6月、初の「民主的選挙」でモルシ大統領が選ばれた。だが,2013年7月,憲法によれば後3年の任期があるというのに、軍の力でモルシ大統領はその座から追放された。これが投票による議会主義の末路であり、議会主義的民主主義、衆愚政治の本質がここにある。
一方、最近、先進的知識人の、ロシア革命に関する注目すべき「党派的な発言」があった。それはフランスの歴史人口学者、エマニュエル・トッド氏の主張である。氏は「ロシア革命を実際に遂行したのはメンシェビキではなく、ボリシェビキであった」(五月二十二日付読売新聞)と明言している。つまり、1905年1月、日ロ戦争に反対し、革命に蜂起したのはボリシェビキであった、と。その通りである。それが可能となったのは、労働者代表ソビエト(評議会)が樹立されていたからである。けっして議会制選挙ではなかった。この点については、トッド氏は触れていないが、わかりやすく具体的に紹介しているのが『ソビエト同盟共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』(一九三八年認可)である。「ソ党史」は今やロシア革命史の古典である。その一節(第3章・第4節)をここに紹介する。ここから「評議会(ソビエト)とは何か」を深く学ぶよう、呼びかけるものである。
《 『ソビエト同盟共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第6章・第4節》
革命の一層の昂揚。一九〇五年十月にお
ける全ロシア的 政治ストライキ。ツァ
ー制の退却。ツァーの詔書。労働者代
表ソビエトの出現
一九〇五年の秋までには、革命運動(第一ロシア革命)は全国を席巻し、非常な勢いで成長していた。
九月十九日に、モスクワで印刷工のストライキが始まった。それはペテルブルグや、他の諸都市へ拡がった。モスクワでは、印刷工のストライキは、他の産業の労働者の支持をうけ、政治的総罷業に発展した。
十月の初めには、モスクワ・カザン鉄道でストライキが始まり、一日後には、モスクワの発終駅全部がストライキをやった。まもなく、国内の鉄道全部がストライキを決行するに至った。郵便も電信もとまった。ロシアの方々の都市では、労働者が何千人という大集会に集まり、仕事をやめることを決議した。ストラィキは工場から工場へ、町から町へ、地区から地区へと拡がって行った。罷業労働者の側には、下級事務員、学生及び弁護士、技師、医者等のインテリゲンチャが参加した。
十月の政治的ストライキは、全ロシア的ストライキになり 、それは最も辺鄙な地方にも及んで、ほとんど全国に拡がり、そして、最もおくれた層までも含んで、ほとんど全労働者をまきこんだ。鉄道従業員、郵便電信事務員、その他、ストライキを決行した人数も非常に多かったが、それを計算に入れないで、工業労働者だけでも、約百万人が、政治的総罷業に参加した。国内の全生活は停止した。政府の権力は麻痺させられてしまった。
労働者階級は、専政制度に対する人民大衆の闘争の先頭に立った。
大衆的政治ストライキというボリシェビキのスローガンは、見事に実を結んだのである。プロレタリア運動の威力と能力とを示した十月の総罷業は、ツァーを極度に恐怖させて、十月十七日の詔書を余儀なく出させた。一九〇五年十月十七日の詔書は、『市民の自由権の牢固たる諸原則、即ち、人格の真の不可侵、及び信教、言論、集会、結社の自由』を人民に約束した。人口中のすべての全階級が選挙に参加し得る立法国会の召集も約束した。
かくして、ブルィギンの諮問的国会は、革命の威力によって吹きとばされてしまった。ブルィギン国会のボイコットというボリシェビキの戦術が、正しかったことが証明された。
それにもかかわらず、十月十七日の詔書は、人民大衆に対する欺瞞であり、ツァーの詭計であり、一種の息つぎであって、この息つぎは、信じやすいものを宥めて、時間の余裕を得て勢力を集結し、しかるのちに、革命に痛撃を与えるために、ツァーにとって必要であった。ツァー政府は、口では自由を約束したが、実際には本質的なものは何も与えなかった。労働者と農民は、現在のところ、政府から口先だけの約束の外には何も貰わなかった。予期された広範囲にわたる政治犯人の特赦は与えられないで、十月二十一日に、ごく少数の政治囚に特赦が与えられただけである。それと同時に、人民の勢力を分割する目的で、政府は、幾多の血なまぐさいユダヤ人の虐殺・掠奪を行って、何千人という人間を殺戮し、また、革命を打っつぶすために、警察の配下にあるギャング的団体『ロシア人民同盟』、『ミハイル・アルハンゲル同盟』を組織した。これらの諸団体では、反動的地主や商人、 坊主、浮浪人中の準犯罪人的分子が主役を演じ、人々はこれを『黒百組』と呼んだ。黒百組の連中は、警察の協力の下に、進んだ労働者、革命的インテリや学生に公然と暴行を加え、或いは彼等を殺し、市民の集会や会合場所を焼き打ちしたり、それを射撃したりした。ツァーの詔書の結果は、今までのところ、ただこんなものであった。
当時、人民の間ではツァーの詔書について、次のような歌がはやっていた。
『ツァーは、びつくり、詔書を下さ
った、死人には――自由を、生きて
る者には――捕縄を』。
ボリシェビキは、十月十七日の詔書はわなだったということを大衆に説明した。彼等は詔書が出た後の政府の行動を挑発的撹乱策として烙印を押した。ボリシェビキは、労働者に武器をとり、武装蜂起を準備するように呼びかけた。
労働者は戦闘隊を結成することに、ますます一生懸命になった。政治的総罷業で奪いとった十月十七日の最初の勝利は、ツァー制打倒のために、彼等に一層の努力を、一層の闘争を要求していることが、彼等にはっきりとわかってきた。
レーニンは、十月十七日の詔書を、諸勢力が一時ある均衡を得た契機として評価した。すなわち、この契機にあっては、プロレタリアートと農民階級は、ツァーから詔書を奪いとりはしたがしかし、ツァー制を打倒しうるほどまだ強力ではなく、しかも他方、ツァーは従来の方法だけで支配することがすでにできなくなり、『市民の自由』と『立法』国会を口先きだけでも約束することを余儀なくされたのである。
十月政治ストライキの嵐の中に、ツァー制との闘争の焔の中に、労働大衆の革命的創造力は、新しい威力ある武器、即ち労働者代表ソビエトを創立した。
全工場からの代表者の集会であった労働者代表ソビエトは、世界中でまだ存在したことのない労働者階級の大衆的政治組織体であった。一九〇五年にはじめて誕生したソビエトは、実に、一九一七年に、ボリシェビキ党の指導の下に、プロレタリアートによって樹立された、ソビエト政権の原型であった。ソビエトは、人民の創造力の新しい革命的形態であった。
それは、ツァー制の如何なる法律も規定も破棄して、人口中の革命的層のみで結成されたものである。それは、ツァー制に対する闘争に立ち上りつつあった人民の、独自的活動性の表現であつた。
ボリシェビキは、革命的権力の萌芽として、ソビエトを見なした。彼らは、ソビエトの強さと意義は、専ら蜂起の強さと成功とにかかっていると考えた。
メンシェビキキは、ソビエトを、革命的権力の萌芽的機関だとも、また蜂起の機関だとも見なさなかった。彼らは、それを民主主義化された都市自治体の性質をもつ地方自治機関とみなした。
一九〇五年十月十三日(新暦二十六日)に、ペテルブルグの全部の工場で、労働者代表ソビエトの選挙が行われ、同日の夜には、ソビエトの第一回会議が開かれた。ペテルブルグに続いて、モスクワでも労働者代表ソビエトが組織された。
ペテルブルグの労働者代表ソビエトは、ロシアの最大の産業と革命の中心地のソビエトとして、又、ツァー帝国の首都のソビエトとして、一九〇五年の革命において、決定的な役割を演ずべきであった。しかるに、それは、ソビエトにおける悪性のメンシェビキ的指導のために、自己の任務を果たさなかった。 周知の如く、レーニンはその時ペテルブルグにはいず、まだ外国にいた。メンシェビキは、レーニンのいないのを幸に、ペテルブルグのソビエトにもぐりこみ、そこの指導部を占領した。かかる情勢の下において、メンシェビキのフルスタレフ、トロッキー、 バルヴス、その他が、ペテルブルグ・ソビエトを、蜂起政策に反対させることに成功したとて、あえて驚くに足らぬ。彼らは、兵士をソビエトに接近させ、彼らを共同闘争に結びつけないで、兵士達がペテルブルグから撤退することを要求した。 ソビエトは、労働者を武装させ、かつ彼等を蜂起へ準備させるかわりに、グズグズして時を費し、蜂起の準備に対して否定的な態度をとった。
モスクワ労働者代表ソビエトは、革命において、全く異なった役割を演じた。モスクワ・ソビエトは、樹立された最初の日から、最後まで、革命的政策を遂行した。モスクワ・ソビエトの指導は、ポリシェビキの手に握られていた。ボリシェビキのおかげで、労働者代表ソビエトと並んで、モスクワには兵士代表ソビエトが生まれた。モスクワ・ソビエトは、武装蜂起の機関となった。
一九〇五年の十月から十二月までの間に、いくつかの都市と労働者居住中心地のほとんど全部に労働者代表ソビエトがつくられた。兵士及び水兵代表ソビエトを組織し、労働者代表ソビエトにそれらを合同させようとする試みがなされた。また、あるところでは、労働者農民代表ソビエトが創設された。
ソビエトの影響は非常に大きかった。ソビエトがしばしば自然発生的に生まれ、形式を整えずその成員においてもはっきりしないものだったにもかかわらず、それらは、一つの権力として行動した。ソビエトは、専断的に出版の自由を実施し、八時間労働制を制定し、ツァー政府に税を払うなと人民に檄した。ある場合には、彼等は、ツァー政府の金を沒収し、革命の入費にそれを使用した。
以上である。ここから明らかなように、ボリシェビキはソビエト(評議会)を「新しい革命の形態」(権力機関)とみなしたが、他方、メンシェビキはソビエトを単なる「地方自治機関」としかみなさなかった。ソビエトこそ革命と蜂起の機関であった。
民族主義的極右勢力台頭の潮流が日本にも押し寄せている。だが、民族主義に未来はない。歴史は根本的転換期に到達しているのであり、人類社会は資本主義から次の時代へ、コミュニティ共同体へと変わらなければならない。ここに現代の歴史時代がある。
7月22日付日経新聞は、『右派躍進の波、日本にも』との見出しで、「自国民ファースト」を訴えて大伸長(1議席から14議席へ)を遂げた参政党について、多くの点で「欧州政党と共通点」があるとし、次のように報じている。
『20日投開票の参院選での参政党の躍進は、外国人への厳しい対応や「自国民ファースト」といった反グローバル化の世界的潮流が日本にも到達したことを印象づけた。欧州では同様の主張で台頭した多くの先行事例があり、参政党の党勢の行方を考えるうえで示唆に富んでいる。
欧州では近年、「ドイ ツのための選択肢(AfD)」やフランスの国民連合(RN)、オーストリアの自由党といった外国人排斥を唱える極右政党が軒並み勢力を伸ばしてきた。
ナチスドイツの過去から極右へのアレルギーが根強いドイツでも、AfDが2月の総選挙で第2党に躍進し、最近の一部支持率調査ではトップとなった。RNも2024年の欧州議会選のフランスでの得票率で首位に台頭。自由党も同年9月の総選挙で第1党になった。
これら3党の参政党との共通点は多い。いずれも経済低迷で社会の閉塞感が高まるなか、既成政党やエリート官僚などの体制側(エタブリッシュメント)が一般市民の利益を無視した政策を続けていると非難し、支持を広げた』と。
まさに極右勢力・民族主義勢力の台頭は、国際的流れであり、それが日本にも出現したということである。こうした極右勢力台頭の背景にあるのは、「経済低迷で社会の閉塞感の高まり」(凄まじい格差と深刻な貧困)の中で、人民大衆を導くべき革命的指導部が「不在」の結果、行き場を失った既成の権力支配者に対する一般民衆の怒りの爆発であり、それを極右勢力が巧みに利用しているのである。
ここに現代の歴史時代がある。
現代の歴史時代とは何か。
世界は無重力の時代であり、漂流する時代であり、大衆の怒りがいたるところに爆発している時代である。その根底にあるのは資本主義というこの政治・経済・社会制度が生み出す必然の産物としての抑圧と生活苦、失業と貧困、格差社会の拡大と前途への不安である。この現象と原因については水野和夫氏の著作『資本主義の終焉と歴史の危機』が解明している通りである。つまり歴史は人類社会の根本的転換期に到達しているのであり、人類社会は永遠に存在し続けるために、原始社会から奴隷制へ、そして封建制から資本主義へ、こうして次の時代たるコミュニティ共同体へと変わらなければならない時代に到達しているのである。歴史は変化を求めて爆発する。
これは哲学・歴史科学の必然の法則である。この必然性が、人類社会最後の帝国主義国家たるアメリカ帝国主義の一極支配を終わらせた。その結果ついに世界は重力を失い、無政府状態となり、バラバラになり、必然的に、人間欲望の自由主義の国家形態たる民族主義と無差別テロが爆発しているのである。
今日、全世界に吹き上がる対立と抗争、内乱と暴動、国家間の紛争と非難合戦などはみな、すべては歴史と民族主義の爆発である。 民族主義が形や姿を変えて、宗教対立となり、経済紛争となり、 国境紛争となっている。しかし歴史が証明しているとおり、民族主義に未来はない。歴史が封建制の遺物としての民族主義を拒否するのである。それは民族主義の典型であったヒトラーと日本軍国主義の歴史が明確に証明している。
そして特筆しておかねばならないのは、現代ヨーロッパを大混乱と動揺に陥れている難民問題である。内戦が続く中東、シリアなどからヨーロッパに殺到する難民・移民は、2024年末現在一億二千三百二十万人(国連調べ)に達し、第二次世界大戦以来の最大の危機と呼ばれる事態となっている。それが欧州連合(EU)内の各種の矛盾と結びついてヨーロッパの危機を 生み出しているのである。
平和と生活と身の安全を求め、祖国と故郷を捨て、流浪の民となって、当てもなく、これだけ多くの民がさ迷うような時代は今までなかった。ここに現代資本主義の政治的危機がある。もはや現代資本主義に人類を豊かにする能力はなくなったのである。ここにも歴史の転換期を見ることが できる。すべては『資本主義の終焉と歴史の危機』という経済上の土台が、このような政治的・社会的危機を生み出しているのである。
すべての出来事と現象は歴史の必然性としの時の歴史時代の産物である。
21世紀は人民の世紀、人民戦線の時代である。日本人民は、評議会の樹立を目指す人民戦線運動の旗印、その「合言葉」「人間像」を高く掲げて進軍せよ!
革命的情勢は必ずやってくる。その時、歴史は労働者階級と人民に対し、「ここがロドスだ。ここで跳べ!」と呼びかけ、その歴史的使命を果たすよう強く求める。
歴史科学は今やすべての道が人民民主主義に基づく人民の世界を求めている。21世紀は人民と人民戦線の時代である。歴史がそのように求めれば求めるほど、独占と帝国主義はそれに逆らい、自己支配を維持するため新右翼主義、新民族主義、新しいファシズムをめざして一層反動化する。故に人民と人民戦線は自己の隊列を整えて闘う以外にない。ここに勝利の道がある。
次が人民戦線的合言葉と人間像である。
人民戦線運動の合言葉とは何か。
◎人民戦線とは人民による、人民のための、人民の世界(権力、政府、社会)をめざす運動と闘いである。
◎人民戦線とは独占的財閥と帝国主義的支配に反対するすべての勢力の統一戦線であり、「批判の自由、行動の統一、政治活動の自由」という人民民主主義的団結と統一体である。
◎人民戦線とは真の人間性、真のヒューマニズム、真の人間愛にみちた集団であり、人民権力、人民政府の母体であり、われわれの国家である。
◎生活と権利、自由と民主主義、独立と平和、人間性と人間の尊厳をめざす人民闘争、人民戦線、人民権力万歳。
人民戦線的世界と人間像とは何か。
◎国家・社会・生産活動の目的を最大限の利潤追求のためにするのではなく、すべてを人民と人間の豊かさのためにする。
◎生産第一主義と物質万能主義ではなく、人間性と人間の尊厳を第一にする。
◎金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさを第一にする。
◎着物や建物の美しさではなく、働く人びとの生きる姿の美しさを第一にする。
◎一人だけ自分だけが急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなといっしょに力をあわせて進む。
◎存在(環境)が人間(の心)を決定する。存在(国家と権力)を人間(人民)のものにせよ。ここに人間性善説が最終的に勝利する。 (以上)
結 語
われわれは何者か。
わが党は一般的(国際的)には正統マルクス主義の党であり、特殊的(国内的)には大武思想の党である。それは国際マルクス主義運動の歴史、日本共産主義運動の歴史、そして現代の歴史時代がこのことを決定づけました。
国際的には、フルシチョフが出現して「スターリン批判」を展開したその瞬間から、われわれは一貫して、これはマルクス主義の哲学原理に違反しており、そしてこれは早くからレーニンが警告していたとおり、まさにフルシチョフは修正主義的裏切り者であると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。
国内的には、日本共産党に宮本修正主義が出現、党の創立者徳田球一を否定したその瞬間から、ここに日本における修正主義があると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。そして徳田球一が創建した「獄中十八年・非転向」という日本共産党の不屈の革命精神と革命的伝統を守り抜きました。日本共産党(行動派)歴史年表をみればわかるとおりです。中国における文化大革命が日本共産主義運動に刺激をあたえ、日本国内に「文革左派」が発生したとき、中国共産党のあるチームからわれわれに一定の要求(左派連合)があったとき、われわれはマルクス主義の理論上の原則にもとづきこれを拒否しました。その後の歴史はわれわれが正しかったことを証明しています。
そして今日、イラク戦争が発生した時、この帝国主義戦争はアメリカ帝国主義を崩壊へ導くだろうと予告した。こう主張したのはわれわれだけであったが、現代の歴史がその正しさを証明しています。
われわれは常に、一貫して、正統マルクス主義とその理論上(思想上)の原理、理念、原則を守り通し、それを止揚しつづけました。マルクス主義の歴史と現代史がわれわれの正しさを立証しています。そしてこれらの闘いと運動においては常に大武礼一郎を中心に全党が統一し、団結
し、結束しました。ここにわれわれの誇り、われわれの確信と信念があります。そしてこのような歴史が、科学的証明として「わが党は正統マルクス主義の党であり、大武思想の党である」ことを決定づけたのであります。
今日の歴史時代は、アメリカ帝国主義の崩壊と、資本主義の終焉・世界史の転換という巨大な爆発と収れん期にあります。それは必然性をもってマルクス主義の復権と、社会主義の再興を求めています。今日すでに内外にその兆しが見えています。この運動はいくつかの偶然性を経て、必ず、わが行動派党の創立者大武礼一郎が発表した〈学習のすすめ〉(英訳は二〇二五年三月発表)とその内容、マルクス主義に関する根本原理・基本理念・理論上の原則に向かって収れんされるでしょう。
▼われわれは正統マルクス主義者である。われわれはその日本における唯一の党、大武思想と行動派党である!
▼われわれは哲学・科学の統一された絶対的真理を堅持した、人民と歴史の進路を導く灯台、羅針盤、道しるべである!
▼われわれは歴史の要求と、人民の要求と、運動と闘いの要求にもとづいて存在しているのであり、歴史が必然性に到達するまで存在し、運動し、闘いつづける!
▼われわれの思想信条は、マルクスが愛したあの言葉「汝の道を行け、人には語るにまかせよ」である!
▼われわれは歴史の中から生まれ、歴史と共に存在し、歴史と共に永遠に不滅である!
▼日本共産党(行動派)の革命的伝統万歳!
▼正統マルクス主義・大武思想万歳! (以上)
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