2023年8月25日 №528

2023年8月25日 №528

〈2023年「7・15」記念集会の基調報告〉


 

帝国主義と独占資本主義は危機にあり、歴史はプロレタリア革命(コミュニティと、社会主義)を迫っている。ロシアの6月クーデター事件はその証明である!

 

歴史はマルクス主義を求め、革命的前衛政党を求めて前進している。日本におけるそのような党は行動派共産党であり、大武思想の党である。われわれはその核であり、旗手である! 

 

日本共産党(行動派)中央委員会政治局員

長     

 

「7・15記念集会」の月間、現代の歴史時代を象徴する重大な事件が発生しました。それはウクライナ戦争の最中、6月2324日、ロシアで『ワグネル』の武装反乱、クーデター事件が起き、ロシアばかりか帝国主義と独占資本主義の世界を大きく揺さぶっています。すべては階級対立と階級闘争の反映であります。

 『ワグネル』の創業者プリゴジン氏は「軍の腐敗、堕落を批判し、戦線には弾薬もなければ戦争戦略もない。犠牲者だらけのこの惨状を見よ。国防省は何をしている」と叫び、南部の重要拠点を占拠し、モスクワめざして進軍しました。国民の不満と怒りの爆発でした。

 月刊情報誌『選択』7月号はその本質をズバリ、次のように書いています。

〈今回の事件は一九〇五年と比較すべきだ。血の日曜日事件である。抗議の波は戦艦「ポチョムキン」号の反乱などロシア軍内部にも及んだ。レーニンは〇五年騒乱を「革命のドレス・リハーサル」と呼んだ。この次に来るのは一七年のロシア革命本番ということになる〉と。その通りである。レーニンは「一九〇五年は革命の予行演習であり、一九一七年のロシア革命は、その成長転化であった」と明確にはっきりと言っています。

 同『選択』は次のように反乱の模様を伝えています。

〈ワグネルの兵員は、「クーデター」の報道が流れた後、各地で奇妙な歓迎を受けた。

 ワグネルが最初に「占領した」と発表したロストフナドヌーでは、最初こそ市民はおっかなびっくりだったが、やがて食料などの差し入れを始めた。女性たちは英雄を見るようにワグネルの兵員に近づき、彼らと自分を一緒に写したセルフィーを次々とSNSに投稿した。

 プリゴジンはベラルシに出国する。兵員たちの罪は問わない」という措置が発表されると、市民の間から拍手、歓声が起こった。

 一方、ワグネルの戦車を載せた車両が、高速道路をモスクワに向けて北上する様子は、SNSで生中継された。在モスクワの外交筋は、「市民がワグネルを応援したのは、クレムリンにとって衝撃だろう。ワグネル車両の北上を、誰も止めようとしなかったことも不気味だ」と言う。部隊が通過した地方政府の当局者たちは、明らかに日和見を決め込んだ〉

 「ワグネルの反乱」は国民に支持されていた。故にプーチンは何もできなかったのです。人民の「決起」に権力は全く無力でした。それでもワグネルの反乱が中途半端に終わったのは、プーチンに訴えて、軍の問題の解決をはかろうとしたことにあります。その意味でツアーに嘆願し失敗した1905年の「血の日曜日事件」そっくりでした。

 現代の歴史は、小手先ではない根本的解決を求めて激動しています。今のロシアにはかつてのボリシェビキの如き力ある革命政党は存在しません。かくなる状況下で「ワグネル」の「革命」(クーデター)が起こったのです。しかし結局は敗北した。それは当然でした。

仮にボリシェビキの伝統を継承した前衛政党が今のロシアにあったなら次のようなスローガンで革命は実行されたでしょう。

「帝国主義戦争を内乱に転化せよ。戦争を続けるプーチン政権を打倒せよ。戦争をやめ平和と共同体のソビエトを復活させよ。人民は蜂起し、クレムリンを包囲せよ!」と。ここに勝利の展望があります。

この事件は、まさに革命はやって来る、というマルクス主義的革命論の正しさを証明しています。「ワグネルの反乱とクーデター事件」は、こうした重大な教訓を提起したのであります。

日本共産党創立と、われわれの七・一五記念集会に対するうれしい贈り物となった政治事件であります。マルクス主義の正しさと、日本共産党(行動派)の革命的伝統に確信と信念を堅持しよう。

 

 日本共産党(行動派)の 

 歴史年表!

 

帝国主義段階に達した二十世紀世界資本主義の最初の矛盾の大爆発は一九一四年の第一次世界大戦でした。そしてその結果は、帝国主義戦線の弱い一環はロシアに現われ、ロシア十月社会主義革命となって、世界で最初の社会主義国家・プロレタリア独裁の国家を生み出しました。人類はここにはじめてまったく新しい社会主義制度、人類が体験した五番目の社会制度を創造したのであります。これはマルクス主義の偉大な勝利であり、マルクス主義のロシアにおける実現でした。これを指導したのは、ロシア共産党(ボリシェビキ)であり、レーニンでした。レーニン主義は帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義となったのであります。

 同時にそのことは、ロシア革命を勝利させたボリシェビキの党、革命的マルクス主義の党、レーニン主義の党を至急に各国で結成させるべき必要性と歴史的任務が、各国のプロレタリアートの頭上に課せられていったのです。そして、このような党の結成を援助し、指導すべき国際プロレタリアートの革命組織、共産主義インタナショナル(第三インタナショナル=コミンテルン)は、レーニンの指導によって一九一九年三月、モスクワに創立されました。こうして世界各国の革命的労働者は続々モスクワに集まり、ロシア革命とレーニンに学び、それぞれの国における革命党の創立に取り組んでいったのであります。日本共産党の創立は国際主義のたまものでした。

 

日本共産党(行動派)は徳田球一と日本共産党の革命的伝統を継承し、大武礼一郎とわれわれ行動派党によって一九八〇年七月十五日に再建された!

 

 一九五五年七月二十九日、日本共産党はこの日に第六回全国協議会を開きました。スターリンはすでに死亡、徳田球一も一九五三年十月北京にて死去、その後の党は野坂参三が中心になり、志賀義雄と宮本顕治が協力して、ソ連共産党のフルシチョフ修正主義の支援のもと、徳田球一の否定と、日本における修正主義の道を開く、そのための「六全協」でした。

 

 日本共産党の第六回全国協議会(六全協)では、いったんは党外に追放され、いったんは徳田球一の前に自己批判した宮本一派が、この機会に党復帰し、ついに党中央の実権を握るに至ったが、この「六全協」はまったく日本共産党の全党の意志でやられたのではなかった。それはフルシチョフ修正主義が出現したソ連共産党(スターリンなきソ連の党)と徳田球一亡き後の野坂参三ら党内小ブルジョア

 

 

派が合作した代物でした。党内のプロレタリア革命派はこれに批判的であり、これを承認しなかったのであります。

 徳田球一とプロレタリア革命派の指導下に闘った多くのプロレタリア幹部は、党の革命的伝統を守るため、断固として『六全協』に反対しました。しかしそのほとんどは党の指導機関から排除され、弾圧されました。大武礼一郎もまた、当時党関西地方委員会の幹部として『六全協』に反対しましたが、あとで指導機関から排除されてしまいました。そのため大武礼一郎は生産点と職場に深くはいり、下から、大衆闘争のなかから宮本―志賀ラインに対する闘争を開始したのであります。

 一九五八年七月二十一日―八月一日、日本共産党第七回大会開催。この大会は宮本―志賀ラインの右翼日和見主義の全党支配が完成するかどうかという、党にとって歴史上の分岐点ともなった大会でした。

大武礼一郎は党内部における最後の闘いとして、指導機関の推薦を受けることなく大会代議員に立候補し当選、第七回大会に出席しました。

 大武礼一郎は大会議長団に『五〇年問題』に関する文書を提出、宮本―志賀ラインの『国際派』こそ分派であり、彼らは完全な右翼日和見主義であると非難、大会がこの問題を討論するよう求めました。

 宮本―志賀ラインの議長団はこの文書を排除、そのまま五〇年問題委員会の名によって送りかえしてきました。

 かくしてこの大会は完全に宮本路線が支配し、以後党指導機関は右翼日和見主義によってぬりつぶされ、〝行動派〟の伝統、プロレタリア革命派の伝統をうけつぐ幹部は中央から、各指導機関から一掃されていったのであります。

 第七回大会の結果を検討した大武礼一郎は、宮本路線は明確な修正主義であり、いまや完全に全党を支配した。したがって彼らと闘争し、党を再建するという仕事は、長期にわたる日本革命と日本の階級闘争における基本的任務になったのだという結論に達しました。

 そのため大武礼一郎は現実の人民闘争と階級闘争にとりくみつつ、このなかから新たなプロレタリア革命派を結集し、真のプロレタリア革命派幹部を形成する以外にないと考え、その作業にとりかかったのであります。

 同時に大武礼一郎は工場と生産点に偉大な根拠地を築くべく、一九六一年の末、自ら工場のなかにはいり、労働運動にとりくみつつ、中核と根拠地を設営しました。そしてこの長期かつ困難な闘争は宮本修正主義からの連合した攻撃をはねかえし、一九六六年末には基本的に勝利し、根拠地は完成しました。

 一九八〇年七月十五日、日本共産党の創立記念日であるこの日、東京で日本共産党(行動派)再建第七回大会が開催されました。大会は大武礼一郎の呼びかけにこたえて、日本共産党のプロレタリア革命派、共産主義者同盟(国際主義派)、階級的・行動派労働運動団体、青年同盟、婦人同盟、など革命団体と革命組織の代表数十名が出席しました。大会は宮本修正主義と決別した真の革命的前衛党、行動派の党、日本共産党(行動派)の再建を高らかに宣言しました。そして大会は『綱領』と『規約』を採択し、偉大な文献『新・共産党宣言』が大武礼一郎の手によって内外に発表されました。徳田球一の党、プロレタリア革命派の党、行動派の党はここに再建されたのであります。

 

われわれは何者か、をもう一度確認しよう!

 

 われわれは一般的(国際的)にはマルクス主義の原理・原則の擁護者であり、マルクス主義復興運動の旗手であり、レーニン主義的(ボリシェビキ的)党建設の推進者であります。

われわれは特殊的(国内的)には徳田球一と日本共産党の革命的伝統の継承者であり、宮本修正主義と決別して正統マルクス主義の党・日本共産党(行動派)を再建した大武思想の党であります。

 国際的には、フルシチョフが出現して「スターリン批判」を展開したその瞬間から、われわれは一貫して、これはマルクス主義の哲学原理に違反しており、そしてこれは早くからレーニンが警告していたとおり、まさにフルシチョフは修正主義的裏切り者であると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。

 国内的には、日本共産党に宮本修正主義が出現、党の創立者徳田球一を否定したその瞬間から、ここに日本における修正主義があると断定、以後一貫してこれと闘ってきました。そして徳田球一が創建した「獄中十八年・非転向」という日本共産党の不屈の革命精神と革命的伝統を守り抜きました。日本共産党(行動派)歴史年表をみればわかるとおりです。

 中国における文化大革命が日本共産主義運動に刺激をあたえ、日本国内に「文革左派」が発生したとき、中国共産党のあるチームからわれわれに一定の要求(左派連合)があったとき、われわれはマルクス主義の理論上の原則にもとづきこれを拒否しました。その後の歴史はわれわれが正しかったことを証明しました。

 そして今日、イラク戦争が発生したとき、この帝国主義戦争はアメリカ帝国主義を崩壊へ導くだろうと予告。こう主張したのはわれわれだけであったが、現代の歴史がその正しさを証明しています。

 われわれは常に、一貫して、正統マルクス主義とその理論上(思想上)の原理、理念、原則を守り通し、それを止揚しつづけました。マルクス主義の歴史と現代史がわれわれの正しさを立証しています。そしてこれらの闘いと運動においては常に大武礼一郎を中心に全党が統一し、団結し、結束しました。ここにわれわれの誇り、われわれの確信と信念があります。そしてこのような歴史が、科学的証明として「わが党は正統マルクス主義の党であり、大武思想の党である」ことを決定づけたのであります。

 

結 語

 

 ▼われわれは正統マルクス主義者である。われ われはその日本における唯一の党、大武思想と行動派党である!

 ▼ われわれは哲学・科学の統一された絶対的真理を堅持した、人民と歴史の進路を導く灯台、羅針盤、道しるべである!

 ▼われわれは歴史の要求と、人民の要求と、運動と闘いの要求にもとづいて存在しているのであり、歴史が必然性に到達するまで存在し、運動し、闘いつづける!

 ▼われわれの思想信条は、マルクスが愛したあの言葉「汝の道を行け、人には語るにまかせよ」である!

 ▼われわれは歴史の中から生まれ、歴史と共に存在し、歴史と共に永遠に不滅である!

 ▼日本共産党(行動派)の革命的伝統万歳!

 ▼正統マルクス主義・大武思想万歳!

                               

                          (以上)