

2023年4月25日 №524
〈真の民主主義は直接民主主義たる評議会(ソビエト)である〉
投票制にもとづく選挙制度という間接民主主義は、大衆迎合の愚民政治と衆愚政策そのものである。その弊害が政治、経済、社会の各分野に出現する各種の矛盾の爆発であることを認識せよ!
歴史は、人民による人民のための人民の政治を求め、その方法としての直接民主主義・評議会を求めている。運動と闘いの中で、大衆参加・大衆討議・大衆決議を通じて、各分野、各戦線、地域、全国的に、自らの意思を評議会に集約し、収れんし、これを執行機関(権力)で実現する。ここに真の民主主義がある!
第20回統一地方選が始まっている。3月23日の9知事選の告示を皮切りに順次告示され、前半戦は4月9日に、後半戦は4月23日に投開票され、選挙は一ヵ月間続く。衆参の補選(千葉5区、和歌山1区、山口2区、4区、参院大分選挙区)も23日に開票される。
しかし、3月5日付朝日新聞の調査によると、47都道府県議選の直近選挙(2019年)で
実際の定数の4分の1が、無投票で決まっていた実態がわかった。有権者数で見ると、全体の2割超の2400万人が投票の機会を失った形だ。いったいこれはどういうことか。資本主義が世界で崩壊し、機能不全が進む中、それを支えた選挙制度、つまり自由主義的民主主義も破綻した、という事である。それは地方選ばかりか、国政選挙の矛盾やひずみもあちこちで暴露されている。例えば、その一例が3月25日付の産経新聞は、〈一票の価値、理想と現実の狭間―政治と司法 続いた「いたちごっこ」〉との見出しで次のように書いている。
〈高度成長に伴って、昭和30年代に地方から都市への人口流入が加速し、国政選挙での「一票の格差」は拡大していった。これは「法の下の平等」に反するのではないか。…
昨年12月には衆院選の選挙区を首都圏など5都県で増やし、人口が減少している10県で減らす「10増10減」の改正公選法が施行された。衆院選の最大格差は2倍を超えない範囲に収まる計算だ。ただ、人口移動が起きれば見直しは必須だ。都市と地方の人口偏在が解消されない限り、「地方切り捨て」が懸念される。
格差是正のために行われた合区にも問題は残る。平成28年の参院選で徳島県と合区された高知県では投票率が全国最低となった。当時の県議会議長が衆参両院の議長に提出した意見書によると、投票のうち約6%にあたる1万7569票が「合区反対」などと書かれた無効票だったという〉投票率も全国的に低迷が続く。
まさに選挙制度の破綻である。人民大衆は姿・形を変えて不当な選挙制度に抗議し、反乱を起こしている。国家と社会制度の在り方が問われているのである。人民は今や投票用紙に「反対」と書くまでに至ったのである。これは歴史がすでに、選挙とは何か、投票とは何か、真の民主主義とは何かについて考え、行動せよ、と歴史が迫っている証しである。小手先でなく、根本的転換である。これは評議会への道である。
歴史はコミュニティ社会を求めて前進する。民主主義も又その過程で評議会に到達する。現に、世界ではもう始まっている。3月27日付日本経済新聞は、オピニオン欄で、論説フェロー芹川洋一氏が、「政治を立て直すために」「熟成民主主義への挑戦」との大きな見出しで、その実例をいくつか紹介している。市民会議(アイルランド・カナダ)、市民パネル(フランス・ポーランド・英国・米国)、コンセンサス会議(オーストリア・デンマーク・ノルウェー)、G1000(ベルギー・オランダ・スペイン)、市民評議会(オーストリア・ドイツ)、討論型世論調査(アルゼンチン・イタリア・日本・韓国)、東ベルギーモデル(ベルギー)、市民評議会(スペイン)等、である。世界はさまざまな形で動いている。すべては量から質へ、低いところから高いところへ。すべては弁証法的発展である。
真の民主主義は「評議会」である。運動と闘いの中で、大衆参加、大衆討議、大衆決議を通じて、自らの意思を評議会に集約する。そしてこれを執行機関(権力)で実現する。選挙制度の破綻はおのずと「評議会」に到達せざるを得ない。
日本の政権は現在、岸田内閣であるが、その前は安倍、菅政権
であった。とくに安倍政権は8年間も続く長期政権であった(第二次安倍政権は2012年12月26日から2020年9月16日まで)。
この間、何が自民党を勝たせたのか。それは自民党への信頼でも、安倍政権への信頼でもなかった。アベノミクスにみんな惑わされていたのである。安倍政権が打ち出す「三本の矢」「日本を取り戻す」「経済再生」などの華々しい言葉に惑わされていたのだ。
その一番いい例はヒトラーである。第一次世界大戦でドイツが敗けた後、ドイツ国民はベルサイユ条約によって塗炭の苦しみを受ける。その時ヒトラーが、「ベルサイユ条約を無視せよ」「民族自決権を奪い返せ」「賠償の拒否」をスローガンに民族主義をあおり立てた。惑わされた民衆は一九三三年のドイツ総選挙において、九六%という高い投票率、九二・二%という最高の得票率をナチスとヒトラーに与え、ドイツの運命をヒトラーに託したのであった。その後のヒトラーの運命をみればわかる。大衆というのは選挙に惑わされるのだ。
安倍元首相の経済政策(アベノミクス)の指南役であった当時の内閣官房参与を務めた浜田宏一米エール大学名誉教授(87)は、3月21日付の東京新聞に「トリクルダウン起こせず予想外であった」と自己批判しているが、アベノミクスは全くの幻惑、幻想であった。「富裕層の所得が増えれば、その一滴が貧困層にも行き渡る」などという考えは古い奴隷思想である。日銀幹部の多くは、浜田氏の発言を受け、疑問視していたが、「安倍元首相に抵抗できずに従ってしまった」と言っている。権力は全能であり、魔性である。
かつて、経済学者で同志社大学教授の浜矩子氏が『「アベノミクス」の真相』という本を出版した。その中で浜氏はマルクスの「共産党宣言」をもじって次のように書いている。『今、「アベノミクス」という名の妖怪が日本の巷を徘徊している。えらく鼻息の荒い妖怪である。その鼻息が吹き出されるたびに、一緒に濃厚な毒ガスがあふれ出てくる。「根拠なき熱狂」の毒ガスである』と。選挙とはこの「毒ガス」に惑わされるのである。ここに選挙の愚民性がある。
われわれは早くからアベノミクスは必ず失敗する、と、一貫して主張していたが、歴史はマルクス主義の正しさを証明した。アベノミクスは、現代資本主義世界が行き詰まって崩壊する歴史過程におけるアガキであった。これは日本独特のものではない。世界をみればわかる通りである。アメリカの一極支配が終わり、世界は無極状態、戦国動乱、現代社会はまさにそれである。ウクライナ戦争はその反映である。中国が米中対立の中で、停戦に乗り出しているが、全くの混迷である。
日本は今4月統一地方選真っただ中である。選挙では結局、何も解決しない。3月20日付産経新聞は一面トップで「英国の後悔、投票や選挙は落とし穴」であった、という意味の特集を組んだ。〈住民投票によるEUからの離脱は大きな失敗であった。「離脱に一票を投じたことを後悔している」ニュースサイト・アンハードによると、EU離脱を決めた16年6月の国民投票で、エイルズベリーでは52%が離脱を支持した。だが昨年12月時点で離脱を「正しかった」とする住民は27%にとどまる。英世論は完全に逆転した〉と。
英国の国民投票は衆愚政治の典型であった。歴史は科学法則の通りに発展する。
歴史の到達点はコミュニテイ共同体であり、社会主義である。歴史はそのためにマルクスを求め、マルクス主義的前衛党を求め、真の民主主義・「評議会」(ソビエト)を求めて前進する。それを証明したのがロシア革命であった。歴史は資本主義の改良や修繕でなく、大転換を求めて激動しているのである。
(一)投票による議会主義とは、愚民政治であり、衆愚政策であることをしっかり確認せよ。古代ギリシャの歴史から学ぼう。
投票によって政府や政治家を選ぶという方法が出現したのは紀元前五世紀の古代ギリシャであった。ギリシャには当時多くの都市国家(ポリス)が生まれたが、その中のアテネは早くから市民参加型の政治が発展し、やがて投票によって政治指導者を選ぶ方法が採用されるに至った。そして投票用具に用いられたのが陶器の破片であった。投票の結果、市民に人気のない指導者は追放された。そこから歴史上「陶片追放」という言葉が生まれた。結果としてこの制度は、結局は人気投票となり、そこから大衆迎合(ポピュリズム)という悪しき風習が作り出されてしまった。そしてそこからこの方法は政治指導者や、政党間にとって人気取りの政争道具になってしまった。アテネでは政治の無能力と分裂を生み出し、国力は低下し、やがて隣国のスパルタに敗北してしまった。しかしこの制度は大衆支配の手段、ブルジョア自由主義の装飾物として、より巧みに引き継がれていくのである。つまりは大衆の理性・自覚ではなく、その本能を利用し、本能を駆り立て、自由主義を叫びたて、風の吹くま
ま、気の向くまま、行き当たりばったり、そのときの個人的感情によって誰かに投票するという、まさに無政府主義、愚民主義、衆愚主義という、ブルジョア政治の根幹になってしまったのである。
ここで改めて、はっきりと、投票とは何かということを考えてみなければならない。選挙と投票に人びとを駆り立てる行動、何が人びとを投票に行かせるのか。それはあくまでも個人の自由主義、自由行動なのである。すべて個人的事情が根底にある。その契機となるものは、あるときは気の向くままであり、そのときの気分であり、風の吹くままであり、付和雷同である。ある人にとっては個人的知り合い、同郷の人、学閥、同好会、宗教心、名誉欲、そして金であり、物品であり、強制である。ここに個人行動と自由主義と無政府主義がある。だから投票というのは、大衆の後れた部分、社会と切り離され、孤立した個人、個人的幻想と錯覚と夢想にもとづく行動であり、ここに愚民性と衆愚性の本質がある。
そういう愚民政治・衆愚政治の生きた実例、歴史上の実例はブルジョア議会政治のいたるところに、日常茶飯事として山ほどあるが、大きな、代表的でわかりやすいものとしてナチス・ドイツのヒトラーと、国内的には田中角栄の例に見ることができる。あの第二次世界大戦を引き起こした元凶たるナチスとヒトラーの出現はドイツ国民議会が生み出したのである。一九三三年十二月に実施されたドイツにおける総選挙、ナチスとヒトラーへ全権委任するための総選挙では実に九六%の投票率と九二・二%の得票率という、世界史上最高の投票結果からナチスとヒトラーは生み出されたのであった。そして、日本の総選挙史上最高の勝利を得たものは、一九八三年十二月総選挙で田中角栄が得た二十二万票、四六・五%という史上最高の得票であった。しかもそれは、日本史上はじめての現職総理大臣の疑獄事件(ロッキード事件)で有罪判決を受けた直後の、いわゆる「ロッキード総選挙」で、国内世論の八〇%が田中退陣を求めるという社会風土の中での出来事であった。こういう歴史上の事実が証明しているように、投票による議会主義というものが、いかに愚民政治、衆愚政治であるかということをわれわれはよく知らねばならない。これはブルジョア政治の出現以来続く伝統であり、ブルジョア思想に毒された人間には理解されないが、それは労働者階級と人民によって必ず打破される。
そしてまた、選挙における投票率も考えてみなければならない。あらゆる選挙をみればわかるとおり、平均すれば五〇%の投票率である。だからそのなかの七〇%を獲得して第一党となったとしても、政権をとったその政党は全有権者(全国民)の三五%しか代表していないのである。これが大衆参加、国民の支持、選挙での勝利といえるのか。民主主義という名に値(あたい)するものだろうか。否である。ここにも愚民性、衆愚性がある。
真の民主主義とは、自覚された人民大衆の共同の意志、共通の認識、協同行動にもとづく政策の確立と確認、である。人民大衆は、生産点、生活点、つまり労働と生活の中で、互いに協力し、共同し、共通の要求にもとづく運動と闘いの中で、連帯し、交流し、自らのコミュニティーを作り上げていく。ここに真の民主主義がある。その集大成されたものこそ「評議会」である。
(二)二〇一三年七月のエジプト軍事クーデターは、投票による議会主義の破綻を見事に証明した。議会主義は必ず破綻する。人民大衆は人民戦線にもとづく評議会という自らの権力を手にする以外に勝利の道はない。エジプトはこのことを改めて証明した。
10年前の七月三日、エジプトで軍事クーデターが起こった。報道の事実が示す通り、エジプト国防軍の司令官、最高評議会のシシ議長が直接乗り出して、選挙で選ばれたモルシ大統領を出し抜けに逮捕した。そして憲法を停止し、軍の命令で最高憲法裁判所のアドリ・マンスール長官を暫定大統領に任命した。まさに、軍事クーデターそのものである。問題は、この軍事クーデターの本質は何か、ということである。それは、モルシ大統領の出身母体がイスラム原理主義組織であり、そのムスリム同胞団は世界中でテロ活動を繰り返しているアルカイダの源流である。アメリカにとっては許しがたい存在である。アメリカは、エジプト前大統領のムバラク時代にイスラエルと和解した。ムバラクはハマスと縁を切ってこれに協力。アメリカは、アラブの大国エジプトをテコにして反イスラエル勢力を押さえ込もうとしている。そのために、アメリカはエジプトに毎年一三〇〇億円という支援金を出している。今度のクーデターに際しても
七月三日付の産経新聞によれば、七月一日にアメリカ軍のデンプシー統合参謀本部議長とエジプトのシシ国防相が電話で協議して意思統一をはかっている、という。
以上の事実で明らかなとおり、イスラエルを守るために、世界のテロ組織と戦うために、アメリカの軍とエジプトの軍というこの二つの軍事組織が結託して、イスラム原理主義組織であるムスリム同胞団出身の、選挙で選ばれたモルシ大統領さえも一気にたたきつぶすという、この帝国主義的本性が暴露されているのである。ご覧の通り、帝国主義の政治目的のためには、いとも簡単に議会主義というものをたたきつぶすのだ、という歴史の証明である。
念のために付け加えておきたいのは、エジプトに限らず、二〇一〇年末から二〇一一年に吹き荒れたアラブの春。チュニジアから始まり、リビアへ、イエメンへ、バーレーン、そしてエジプトへ、これらの国の独裁政権が次々に倒れた。アラブの春のその後はどうなっているのか。みな不安定で確固とした政権が立てられていない。経済不安、社会不安、政治不安が尽きることがない。すべては議会主義である。人民の要求は、投票にもとづく選挙ではなしに、直接民主主義たる評議会しかないのだ、ということをわれわれは確認しなければならない。
(三)二〇一三年七月のエジプト軍事クーデターは、一九五八年のフランスにおけるドゴールの軍事クーデターの再現であり、まさに歴史は「同じことを二度繰り返す」(マルクス)のである。その本質は議会主義的クレチン病である。
マルクスはかつて「階級闘争の戦略・戦術に関して共産主義者はフランスから深く学ばなければならない。この面に関してフランスは宝庫である」と語った。フランス大革命と「人権宣言」がそうであり、ナポレオン帝政と「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」がそうであり、「パリ・コミューン」とプロレタリア独裁がそうであった。そしてここに記録した一九五八年の事件もそうである。
フランスにおける第二次大戦後の国民議会で特徴的なことは、常にフランス共産党が第一党であった、ということである。一九四五年十月に実施された第二次世界大戦終了後の総選挙では共産党・一五二議席、社会党・一五一議席、人民共和派・一三八議席、であった。一九四六年十一月の選挙では、共産党・一八六、人民共和派・一六六、社会党・一〇三であった。なぜ共産党は常に第一党だったのか。それは歴史が生み出したものである。
一九四五―六年の総選挙といえば、第二次世界大戦の直後である。第二次世界大戦中のフランスといえば、ナチス・ヒトラーの占領下におけるあの有名な「レジスタンス(抵抗)運動」を知らぬものはいない。数々の物語に、映画に、演劇に、小説に、詩に、その英雄的で、愛国的で、悲劇的な闘いと運動は、全世界に感動をよびおこした。ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』は世界の若者たちに、祖国と民族のために死すことの美しさを教えた。そして「レジスタンス」といえばそれはフランスの労働者階級であり、それはフランス共産党であった。フランスが敗れ、ナチスの手先としてペタン元帥のヴィシー政権が樹立された一九四〇年の末から、フランス全土に反ナチ抵抗運動がおこり、それは「闘争(コンパ)」「解放(リベラシオン)」「義勇隊(フランス・ティエール)」「国民戦線(フロン・ナシオル)」、あるいは「マキ団」などという各種の抵抗組織が生まれ、これには労働者も、農民も、商工業者も、政治家も、学者も、教師も、生徒も、婦人も、青年も、軍人も、官吏も、共産主義者も、カトリック僧侶も、自由文化人も、すべてのフランス人が参加した。ナチスの支配下にあっては、このレジスタンスに参加することは死を覚悟しなければならないものであり、報いられるものはなく、求められるものは苦難以外の何ものもなかった。目の前には拷問と死刑がまっているこの闘いに参加させたもの、それは「自由と人間性と祖国のために」であり、「ひざまずいて生きているよりは立って死ぬ」という民族的良心と人民的怒りであった。そして重要なことは、このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。
やがて一九四三年二月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北、戦局はナチスの崩壊へとすすむ。これにあわせてレジスタンス各組織は団結・統一して、ここに『全国抵抗評議会(ソ
ビエト)』を結成、一九四四年二月には武装した民兵によるフランス国内軍を編成した。一九四四年八月から全フランスは労働者のゼネストに突入、同時にパリは武装蜂起へ。八れ、これには労働者も、農民も、商工業者も、政治家も、学者も、教師も、生徒も、婦人も、青年も、軍人も、官吏も、共産主義者も、カトリック僧侶も、自由文化人も、すべてのフランス人が参加した。ナチスの支配下にあっては、このレジスタンスに参加することは死を覚悟しなければならないものであり、報いられるものはなく、求められるものは苦難以外の何ものもなかった。目の前には拷問と死刑がまっているこの闘いに参加させたもの、それは「自由と人間性と祖国のために」であり、「ひざまずいて生きているよりは立って死ぬ」という民族的良心と人民的怒りであった。そして重要なことは、このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。
やがて一九四三年二月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北、戦局はナチスの崩壊へとすすむ。これにあわせてレジスタンス各組織は団結・統一して、ここに『全国抵抗評議会(ソビエト)』を結成、一九四四年二月には武装した民兵によるフランス国内軍を編成した。一九四四年八月から全フランスは労働者のゼネストに突入、同時にパリは武装蜂起へ。八月二十四日、パリは連合軍と国内軍によって解放された。フランス解放は外からの連合軍、そして国内でのレジスタンス。レジスタンスは共産党。この空気は戦後のパリにおける映画館で、ニュース映画にスターリンが現れるや、場内は熱狂と大歓声につつまれたというエピソードがよく現していた。こうしたなかでの戦後の総選挙であったのだ。ゆえにフランス解放の最大の英雄、レジスタンスの英雄、フランス共産党が第一党になったのは当然ではあるまいか。
こうしたなかで一九五八年がやってきた。当時第四共和制下フランス国民議会は、第一党がフランス共産党・一四八議席、第二党は急進社会党・九九議席、第三党は社会党・九六議席、第四党は人民共和派・七三議席で、以上が左翼を構成し、右翼には独立諸派・五九、プジャード派・三七、ドゴール派・一六、その他・五八、であった。
そして第四共和政下の政府はみな弱体で、内閣が二十六回もかわるという状況であった。それは結局、中道政党による連立内閣が何もできない内閣で、何か重大な政治問題が発生するとすぐ分裂し崩壊していったからである。そのとき、もっとも革命的であるはずの共産党までが、議会主義に陥り、あるときは中道政党に引きずられたり、あるときは中道政党の連合のまえにボイコットされたりして、議会主義に陥ったにもかかわらず、議会の中ではいつも孤立していた。
フランス国内で弱体内閣が右往左往しているとき、国外ではフランス植民地での民族闘争が高まり、つぎつぎとフランスは植民地を失っていた。そしていよいよ、フランスにとっては最後の植民地であるアルジェリア独立戦争が最後の段階に到達しつつあった。フランスの独占資本とブルジョアジーはアルジェリア植民地の支配権の保持、そのための本国における強力な政府の樹立を求めてドゴールの出場を早くから画策していた。だが、いくら選挙をやっても、議席の拡大にもとづく議会を通じたドゴール内閣の出現は不可能であった(ドゴール派はわずかの一六議席である)。独占資本にとっても議会はもはや無用のものとなった。
ドゴールの独裁政権樹立のための実力行動、反革命的暴力、軍部と右派政治勢力の力によるクーデターは、いまやフランスにおける矛盾の集中地点たるアルジェリアではじまった。
【一九五八年五月十三日】無能な中道連立政権たる人民共和派のフリムラン内閣が社会党や共産党の支持で組閣されたこの日、あくまでドゴール独裁政権の樹立を叫ぶ右派民衆と軍部が合流して、アルジェリアの首都、アルジェでは大規模なデモが発生、その中の急進的な右翼デモ隊の千人は、「アルジェリアはフランスのものだ」、「無能な中道政権ではなく、ドゴールに政権を」と叫びつつ、アルジェ政庁に乱入、略奪行為をほしいままにするとともに、ここを占領、アルジェ放送局も占領した。デモ隊はそのあと「アルジェ公共治安委員会」の樹立を宣言。これはアルジェリアにおける唯一の政府であると内外に声明した。
フリムラン首相は十四日、アルジェリア駐留フランス軍の総司令官・サラン将軍にアルジェの治安維持に関する全権を委任した。
【五月十五日】公共治安委員会はアルジェだけでなく、アルジェリア全域に組織された。そしてこれらの委員会を一つにまとめ統合した機能を保持するアルジェリア公共治安委員会が発足した。一方本国ではドゴール将軍がようやく腰を上げ、この日はじめて記者会見し「国家が私を必要とするならばいつでも出馬する」という声明を発表した。アルジェ政庁前広場にあつまった五千人の民衆は、ドゴール将軍の出馬声明が発表されるや、〝ドゴール・ドゴール〟という大合唱をとなえた。社会党は「第四共和制の危機」をよびかけ、共産党は議会の招集を提案、フランス労働総同盟はゼネストの用意(用意だけだ)があると声明した。そして十五日の夜は社会党、共産党の議員は議会に泊まり込んだ(恐怖におののく日和見主義者のうろたえぶりをみよ)。
【五月十九日】ドゴール将軍はパリに姿を現して多数の記者団を前に演説した。彼は、いまやフランスを救うことのできるのは私だけである。フランスは私に任せるべきだ。(どのようにして
政権をとるのか、という質問にこたえて)、現在は誠に異常な時期にある、したがってまたその政権は異常な手続きによってのみ可能だ。その異常な手続きとは具体的には何か、ということは情勢が解決する、と語った。
【五月二十五日】クーデター派のアルジェリア公共治安委員会スポークスマンは、ドゴール将軍の権力獲得を支持する運動は今やフランス領植民地の全体に波及したと発表した。フランス地中海艦隊のオーボーワノー司令官はドゴール将軍の権力獲得を支持する声明をアルジェリア公共治安委員会に送った。フリムラン内閣は、もはやドゴール独裁権力の樹立をめざして拡大されつつある公共治安委員会という名のクーデター権力をおさえることも、またこれとの妥協も不可能であることを知った。
【五月二十七日】ドゴール将軍は声明を発表した。「自分は政権樹立のための必要な手段をとる。フランスの国軍は国家と私に忠実であることを信ずる」と。フランス共産党政治局は反ドゴールの闘いに決起するようアピールを発した。共産党系の労働総同盟は二十七日午後二時からストライキを決定したが、多くの組合はこれに同調せず成功しなかった。フランスの労働運動にはもはや、あの輝かしいレジスタンスの伝統も、革命的英雄主義も消えてしまった。そこにあるのは無気力と意気消沈した改良主義のみであった。それは結局、労働者階級の前衛党たるフランス共産党が革命性を喪失して社会民主主義に堕落したことの結果であった。
【五月二十八日】この日の未明、第四共和制にとって実質上の最後の国民議会が開かれた。議会はフリムラン内閣が提出した憲法改定討議に関する決議案を賛成四〇八、反対一六五、の圧倒的多数で可決した。これはフリムラン内閣を信任してこの政府をあくまでおしたて、ドゴール内閣の出現を阻止しようとする議会の空気を反映したものであった。フリムラン首相はこの決議案が否決されれば総辞職する、と言明していたがゆえに、議会はフリムラン内閣信任、ドゴール反対、を表明したのである。ところがフリムラン内閣は、この決議案を支持した票の中には共産党の一四五票がある。しかし共産党は本当の支持票ではなく、自分はこれを認めない。したがってこれを差し引くと、この決議案は可決にはならない(可決の必要票は三分の二であった)。このように主張してさっさと内閣総辞職をしてしまった。フランスの第四共和制には、その憲法のどこをみても、共産党の一票を他の一票と区別するような項目は一つもない。にもかかわらずフリムランは憲法を無視し、議会主義を無視して第四共和制を破壊し、ドゴールへの道を清めていったのである。コティ大統領はこのなりゆきをみつめつつ、フリムランの辞職が決定的となったとたん、直ちに大統領官邸当局のコミュニケとして「大統領は二十八日夜までには新内閣の首班たるべき人の訪問を求めたいと希望した」と発表した。待っていました、というばかりである。
【五月二十九日】コティ・フランス大統領は午後三時、国民議会に対して次のような特別メッセージをおくった。「私はドゴール将軍にこちらに来て政権について私と協議するよう要請する。いまやわれわれは内乱の一歩手前にきている。双方の陣営がいま兄弟互いに殺し合うような闘いの準備をしているようにみえる。これを救うのはドゴール将軍だけである。もしドゴール将軍のもとで政府をつくることができなかった場合には私は辞職する」。夜になってドゴール将軍はコティ大統領と会見、大統領の組閣要請についてドゴールは「私の政府は現在の重大な事態に対処するに必要な全権限を一定期間与えられるべきであること。また私の新政府は憲法改定、その他必要な法律の改定についても議会ではなく、直接国民投票に問う権限をあたえられるべきである」と答え、コティ大統領は無条件にこれを承認した。
【六月一日】フランス軍の決起、アルジェ公共治安委員会の総動員による本国への上陸、右翼と軍のクーデター、などのうわさに、国民議会は浮き足立っていた。フランス国民の大多数と議会の多数は「クーデターか、人民戦線か」、あるいは「ドゴールか、共産党か」の二者択一をせまられた。そしてその結果、民衆と議会の多数は、クーデターにおびえ、軍の決起による国内の混乱におびえ、「必要悪」として共産党よりもドゴールを選ぶ決心をした。
こうして、午後七時半、議会は、議会外の重圧のなかで開会、ドゴールを、賛成三二九票、反対二二四票、という票決のもと、首相とみとめた。もちろんこの票決にあたってドゴールは、「六ヵ月間の間にすべての全権を付与すること。憲法を改定してこれを国民投票にはかる権限を付与すること」など、独裁的機能を自分に与えるよう求めていた。したがってドゴールへの信任はすべてこれらの全権をドゴールに与えることを意味した。これはまぎれもなき、議会のドゴールへの屈服であった。そしてドゴールは何をしたか。六ヵ月間の全権をにぎった彼は、やがて新憲法「ドゴール憲法」を作成し、これを議会にはかることなく国民投票にかけた。九月二十八日の国民投票は賛否およそ四対一の多数で新憲法を承認した。こうして一九五八年十月五日、第五共和制が発足、ドゴール時代へと進む。この時代はまさに「近代的帝政」の時代であり「ドゴール君主制」の時代であった。選挙法も改定された。十一月のドゴール支配下の総選挙では中道左派のマンデスフランス、ミッテランも落選、第四共和制下ではいつも第一党、第二党を保持していた共産党もわずか一〇議席に転落、以後フランス共産党は再び第一党にはなれない。ブルジョア独裁の実力による勝利であった。
なお念のために付け加えておきたいことは、フランスの出来事は何もフランス独特のものではなく、同じことは、形を変えて、一九七六年のイタリアでもおこった。イタリアではこの年の総選挙でイタリア共産党が第一党になったが、いつも様々な妨害で政権は取れなかった。
そしてネパールである。ネパール共産党(毛沢東主義
派)は一九九六年から強力な武力闘争を展開、農村地帯の七十%を支配下に収めたといわれた。にもかかわらず、王制打倒で協定を結んだ、ネパール国民会議派や、ネパール統一共産党などと妥協して選挙による改革に移行、二〇〇八年四月の総選挙で第一党になった。だが、ここでもやはり、いろいろな妨害が加えられ、毛沢東主義派の指導権は実現されず、党も分裂し、ついに権力から外されてしまった。権力の根本的変革とは、改良ではなく革命でなければならず、革命的変革は投票ではなく、大衆の力、大衆の闘い、そして人民闘争による人民戦線、自らの権力としての評議会によるものでなければならない。ここに歴史科学がある。歴史科学の法則としての変革のあり方を真の指導者はよく知らねばならない。
結 語
人類の歴史は原始時代―奴隷制時代―封建制時代―資本主義時代へ、そして現代独占資本と帝国主義の時代に登りつめた。資本主義の頂点に達した現代、らん熟し、腐敗し、堕落してしまった現代、その権力はもはや統治能力を失ってしまった。もはや老いてしまったのである。
歴史の到達点はコミュニティーである。人類が最初に作り出した原始共同体社会は、より発展し、前進し、より高度になって元に帰っていく。階級なき共同体、自覚し、認識し、確認しあった共通の意志にもとづく直接的な民主主義としての評議会を通じて、生産も、分配も、統治も、すべては共同体の中で執行される。人類最初の社会はそうであったのだ。
人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然を持って前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティ社会である。
歴史は到達すべきところに必ず到達する。
われわれは何者か!
現代はすべての面で、大転換の時代です。昨一年間は、「日本共産党」の内部矛盾の激化に伴い、日本共産党(行動派)とは何者か、が各方面で話題となりました。そこで、それに答えて「行動派とは何者か」をここに改めて公表します。
われわれは一般的(国際的)にはマルクス主義の原理・原則の擁護者であり、マルクス主義復興運動の旗手であり、レーニン主義的(ボリシェビキ的)党建設の推進者である。
われわれは特殊的(国内的)には徳田球一と日本共産党の革命的伝統の継承者であり、宮本修正主義と決別して正統マルクス主義の党・日本共産党(行動派)を再建した大武思想の党である。
故にわれわれは、内外と目前に発生したあらゆる問題と課題に正しく答え、正しく導き、正しく指導し、解決する責任と任務を背負っている。そして歴史はわれわれに前衛としての責任を果たすよう求め、期待している。われわれは断固として歴史の要求に答えねばならない。ここにわれわれの党派性がある。
国際的には、フルシチョフが出現して「スターリン批判」を展開したその瞬間から、われわれは一貫して、これはマルクス主義の哲学原理に違反しており、そしてこれは早くからレーニンが警告していたとおり、まさにフルシチョフは修正主義的裏切り者であると断定、以後一貫してこれと闘ってきた。
国内的には、日本共産党に宮本修正主義が出現、党の創立者徳田球一を否定したその瞬間から、ここに日本における修正主義があると断定、以後一貫してこれと闘った。そして徳田球一が創建した「獄中十八年・非転向」という日本共産党の不屈の革命精神と革命的伝統を守り抜いた。
中国における文化大革命が日本共産主義運動に刺激をあたえ、日本国内に「文革左派」が発生したとき、中国共産党のあるチームからわれわれに一定の要求(左派連合)があったとき、われわれはマルクス主義の理論上の原則にもとづきこれを拒否した。その後の歴史はわれわれが正しかったことを証明している。
そして、イラク戦争が発生したとき、この帝国主義戦争はアメリカ帝国主義を崩壊へ導くだろうと予告した。こう主張したのはわれわれだけであったが、現代の歴史がその正しさを証明している。
われわれは常に、一貫して、正統マルクス主義とその理論上(思想上)の原理、理念、原則を守り通し、それを止揚しつづけた。マルクス主義の歴史と現代史がわれわれの正しさを立証している。そしてこれらの闘いと運動においては常に大武礼一郎を中心に全党が統一し、団結し、結束した。ここにわれわれの誇り、われわれの確信と信念がある。そしてこのような歴史が、科学的証明として「わが党は正統マルクス主義の党であり、大武思想の党である」ことを決定づけたのである。
今日の歴史時代は、アメリカ帝国主義の崩壊と、資本主義の終焉・世界史の転換という巨大な爆発と収れん期にある。それは必然性をもってマルクス主義の復権と、社会主義の再興を求めている。今日すでに内外にその兆しが見えている。この運動はいくつかの偶然性を経て、必ず、大武礼一郎が発表した〈学習のすすめ〉とその内容、マルクス主義に関する根本原理・基本理念・理論上の原則に向かって収れんされるであろう。この〈学習のすすめ〉の全内容は正統マルクス主義に関する哲学・経済学・社会主義学説の全体系である。
(以上)
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