2022年8月25日 №516

2022年8月25日 №516

〈「7・15百周年記念」中央委員会声明〉

日本共産党創立の歴史的意義、そしてマルクス主義の原理原則、德田球一の旗を守り抜いた大武思想の党・行動派党の革命的伝統に確信と信念を堅持しよう!

              

二〇二二年七月十五日

日本共産党(行動派)中央委員会

 

 

7月15日は、日本共産党の偉大な創立記念日であり、行動派党の再建記念日であり、『新・共産党宣言』 をはじめとする大武思想の完成記念日である。

今年の「7・15」は、日本共産党創立一〇〇周年記念日である。

現代の歴史時代の特徴は次の点にある。

世界は重大な転換期を迎えている。アメリカも分断され、求心力を喪失、資本主義は事実上崩壊し、至る所に破綻が生じている。日本の参院選では憲政史上最長を誇った安倍晋三元首相が一般の元海上自衛隊員に銃撃され、死亡する事件が起こった。右翼民族主義の敗北である。日本の野党も分裂、分断、混迷の結果、大敗北した。古いすべての事物は、破綻に直面し、歴史の分岐点を迎えつつある。

最近、スリランカが破産宣言した。大統領も海外逃亡。無政府状態である。中国をバックにした古い一族支配の終焉である。朝日新聞の石原記者は、「特派員メモ」(6月14日付)で、最大都市コロンボの若者たちの様子を伝えている。「デモ隊が拠点とする広場にテントを張った『図書館』が誕生。夜になるとその若者たちが集まり、読書にふける。一番人気は20世紀初頭に起きたロシア革命に関する本だ」という。若者たちはロシア革命に活路を求めているのである。

100年前のことが実際に起こっているのである。ここに現代の歴史時代があり、歴史科学の法則がある。歴史は人民戦線を構築し、インタナショナルの旗のもとマルクス主義的前衛政党を建設していく。ここに歴史の必然性がある。

われわれはマルクスの道、ロシア革命とレーニンの道をあくまで前進する。

つぎが100周年を記念するわれわれの決議であり、中央委員会の声明である。

 

この歴史的記念日に当たり、われわれは大武礼一郎名誉議長がマルクス主義哲学原理を定式化した指針、『マルクス・エンゲルスの往復書簡にあふれているその革命的人生観はわれわれ自身のものである』の5項目を紹介する。ここには科学的哲学思想があり、人類の未来展望があり、共産主義をめざす現段階があり、われわれの確信と信念がある。

、宇宙と人類世界は永遠の過去から永遠の未来に向かって絶え間なき運動と発展と前進と飛躍と転換の過程のなかに存在している。このような運動する世界とその歴史が個々の人間に対して如何に生きるのかと問い掛けていく。何のために、どのように生きるのか?と。そしてマルクスは決意する「人類とその世界とは何かを明らかにしなければならない。そして人類の未来展望を示すこと。自己の生涯をこのためにささげる」と。この価値ある人生はわれわれのものである。

②、マルクスが解明した人類の未来とは何か。それは人類が最初に遭遇した原始共同体社会の、より高度に発展、成長した近代コミュニティーである。このとき人類社会は真の民主主義と自由と連帯と共同と協力の人間性あふれる社会が実現する。これは宇宙の歴史、人類の歴史の到達点である。人類は回り回って、多くの経験から学んで、最後に必然の世界に到達する。

③、歴史の必然性は決して一直線ではなく、多くの揺らぎがあり、それが偶然性(予期できない出来事)となって現れる。偶然性は必然性の結果であり、偶然性を通じて必然性は成る。そのとき決定的なことは、この偶然性を必然性に転化(転換)させるものこそ、自然科学では核爆発であり、社会科学では核としての前衛(党)の存在とそのまわりに結集した大衆(人民)の力である。そしてこの力も、自然科学と同様、社会科学の世界でも必然の法則として形成され、成長し、爆発の起爆剤となる。

④、われわれは核として、前衛として、歴史上の任務として存在しつづける。歴史が必要とし、歴史の要求に答えて存在しつづける。そして歴史の運動がその段階に応じて、弁証法の示すとおり量から質への法則に従って、発展し、成長していく。その最終目標は人類史の到達点であり、その過程と段階毎の到達点であり、われわれは常に歴史のなかで止揚され、昇華されていく。故にわれわれは自己の歴史的価値に誇りと確信を持つ。

⑤、マルクスが自己の哲学科学歴史観からその名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(一八五一―五二年)のなかで予言しているとおり、共産主義運動は最終的勝利のためにこそ、途中で一度は立ち止まり、第一歩からやり直すのだというその過程をいま通過している。われわれはマルクス主義者である限り、哲学科学歴史観に徹して現代を闘いぬく。そうする限り、われわれは歴史と共に永遠であり、歴史の中に長く記憶されるであろう。

 ()日本共産党(行動派)歴史年表に表現された日本共産党創立の歴史的事実とその意義について!

 

帝国主義段階に達した二十世紀世界資本主義の最初の矛盾の大爆発は一九一四年の第一次世界大戦であった。そしてその結果、帝国主義戦線の弱い一環はロシアに現われ、ロシア十月社会主義革命となって、世界で最初の社会主義

 

 

 

 

 


国家・プロレタリア独裁の国家を生み出した。人類はここにはじめてまったく新しい社会主義制度、人類が体験した五番目の社会制度を創造したのである。これがマルクス主義の偉大な勝利であり、マルクス主義のロシアにおける実現であった。これを指導したのは、ロシア共産党(ボリシェビキ)であり、レーニンであった。レーニン主義は帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義となったのである。

同時にそのことは、ロシア革命を勝利させたボリシェビキの党、革命的マルクス主義の党、レーニン主義の党を至急に各国で結成させるべき必要性と歴史的任務が、各国のプロレタリアートの頭上に課せられていったのである。そして、このような党の結成を援助し、指導すべき国際プロレタリアートの革命組織、共産主義インタナショナル(第三インタナショナル=コミンテルン)は、レーニンの指導によって一九一九年三月、モスクワに創立された。こうして世界各国の革命的労働者は続々モスクワに集まり、ロシア革命とレーニンに学び、それぞれの国における革命党の創立に取り組んでいったのである。

 

 日本共産党(行動派)歴史年表

 

▼一九一九年三月二日―六 

 日

 コミンテルン結成大会開

 催

 

全世界の共産主義政党と組織の代表はこの日モスクワに集まり、共産主義インタナショナル(第三インタナショナル―コミンテルン)の創立大会を開いた。

これはロシアにおける十月社会主義革命を勝利させたレーニンの直接の指導のもとに、プロレタリア国際主義の結晶、共産主義党の国際的統一体として創設されたものである。

 

▼一九二二年一月二十一日

二月二日

 『極東民族大会』開催さる

 

コミンテルンの組織活動の一つとして、さらには極東の各国に共産主義的プロレタリア前衛党の結成を準備する目的で『極東の共産主義的・革命的組織の第一回大会』(極東民族大会)がモスクワで開催されたのである。

この会議には日本からも徳田球一をはじめ各種の色あいの共産主義、社会主義団体と組織(革命的共産主義者、社会民主主義者、無政府主義者、そして片山潜とアメリカ在住日本人共産主義者)から十六人が出席した。

片山潜は日本共産主義者の代表として議長団に選ばれ、大会でも日本代表団長として一般報告を行った。

 

その後片山潜はひきつづきコミンテルンに常駐し、一九二二年十一月に開かれたコミンテルン第四回大会ではその執行委員会幹部会委員に選出された。

 

 ▼一九二二年七月十五日

 

 日本共産党創立さる

 

 

 

『極東の共産主義的・革命的組織の第一回大会』の決議は徳田球一らによって日本にもたらされ、それにもとづいてはじめて日本共産党が創立されたのである。

 

この日、大会は東京渋谷・伊達町のある民家の二階で開かれ、党創立の確認と規約を承認、当面の活動方針を決定し、堺利彦・山川均・荒畑勝三・高津正道・橋浦時雄・吉川守国、そして徳田球一の七人による中央委員会が選出され、委員長には堺利彦が就任した。

 

 

 

▼一九二四年三月

 

 日本共産党に解党主義発 

 生

 

 

 

日本共産党が創立され、本格的な活動を開始してまもなく、一九二三年六月五日、天皇制政府はまだ若いこの党にいっせい弾圧を加え、主な幹部を全員逮捕し投獄した(第一次共産党弾圧)。

 

つづいて同年九月一日に発生した関東大震災にまぎれて、九月四日には南葛労働会の活動家で青年共産主義者の川合義虎、平沢計七ら九人を亀戸署で軍隊による殺害をおこない(亀戸事件)、九月十六日には憲兵大尉甘粕正彦が無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝らを大手町憲兵隊に連行し殺害(甘粕事件)、またこの間に朝鮮人労働者を惨殺するなど、一連の暴圧を行った。

 

その結果、まずそのいちばん弱い〝環〟、すなわち党内小ブルジョアジーが権力への恐怖と思想上の動揺をひきおこし、これが解党主義となって出現したのである。

 

山川均に代表されるこの思想は、日本にはまだ共産党の結成は早すぎるから、ひとまず党を解散して時が来るのを待とう、というもので典型的な右翼日和見主義・敗北主義・自然成長主義であった。

 

山川均の解党論を積極的に支持したのは野坂参三であった。山川均、赤松克麿、猪俣津南雄、田所輝明らが集まり、獄中にいた堺利彦の支持と承認のもとに、党幹部の名によって日本共産党の解党決議を発表した。

 

これに対し、徳田球一・渡辺政之輔・市川正一を中心にした革命的な人びと、そして荒畑勝三らの良心派は断固と

 

 

 

 



としてこのような解党決議に反対、ただちに党を革命的に再組織する闘いにとりくんだ。

だが解党決議に反対する側の内部にも二つの異なった思想的潮流が出現した。すなわち解党派の残りカスを身につけた党内小ブルジョア派としての〝提唱派〟(彼らは党活動の重点を宣伝と教育活動におき、まず党員を大量に増やすことが先決である、と主張する)であり、一方にはプロレタリア革命派としての〝行動派〟(彼らは提唱派の考えと思想に断固反対し、党はなによりもまず大衆闘争を土台とし、大衆を組織し、具体的に、徹底的に現実の階級闘争にとり組むべきである。この階級闘争という烈火のなかでこそ真の党が建設され、革命の条件も形成されていく、と主張する)であった。

〝行動派〟の中心には徳田球一・渡辺政之輔・市川正一らがすわった。

これがこの当時に発生した二つの潮流であり、この二つの潮流は以後ひきつづき党内に存続していく。

 

▼一九二四年六月十七日―

 七月八日

 コミンテルン第五回大会

 と日本共産党の再組織

 

この日、コミンテルン第五回大会がモスクワで開催され、これには日本共産党代表として片山潜、徳田球一らが出席した。

大会は日本問題小委員会を開き、日本共産党の解党を認めず、ただちに党を再組織することを決議した。

 

▼一九二五年一月

 〝上海テーゼ〟にもとづ

 いて徳田球一は党を組織

 す

 

コミンテルン第五回大会の決議にもとづき、上海でコミンテルン代表と日本共産党代表の徳田球一・渡辺政之輔らが会合、日本共産党を再組織するための政治方針、すなわち〝上海テーゼ〟を確立した。

徳田球一・渡辺政之輔らは〝上海テーゼ〟(一月テーゼともいう)をもって帰国、ただちに日本共産党中央委員会を再組織し、全党の再組織にとりかかった。

このとき再組織された党の中央委員会書記長には徳田球一が就任、組織部長も兼務して、再組織された党を一身に背負って立った。

こうして、このときから日本共産党の中央にはじめてプロレタリア革命派(当時の行動派)の指導権が樹立され、以後、徳田球一が死亡するまで党は一貫してプロレタリア革命派によって指導されたのである。

 

▼一九二七年七月十五日

  『二七年綱領』の獲得

 

コミンテルンの日本委員会がこの日モスクワで開催された。

この委員会には日本共産党の代表として片山潜・徳田球一・渡辺政之輔ら、解党派と闘って党を 再組織した革命派の幹部が中心になって出席した。

コミンテルン日本委員会は全員一致して、新しい日本共産党と日本革命の綱領、すなわち『二七年綱領』を採択した。

 

徳田、渡辺らはこの綱領をもって帰国。十二月二日拡大中央委員会を開催。渡辺政之輔が書記長に就任。党の再組織と工場細胞の建設に向かって前進する。

▼一九二八年三月十五日と

 一九二九年四月十六日

『三・一事件』と『四・一

六事件』の大弾圧下る

 

日本共産党の歴史上、天皇制政府による日本の革命的プロレタリアートに対する最大の弾圧として『三・一五』『四・一六』の二つの大弾圧が下された。この二つの大きな弾圧によって日本共産党の中央・地方の幹部と活動家は根こそぎ逮捕された。とくに徳田球一、市川正一らを中心にしたプロレタリア革命派とその中央は全員逮捕・投獄され、渡辺政之輔は国外から帰国途中の台湾で官憲に包囲、殺害された。

このため、以後の日本共産党はプロレタリア革命派とその中央の指導部なしで、それぞれの共産主義者が独自に、あるいは小グループをつくって、分散した闘争をくりかえすといった困難な状態におちいってしまった。

こうした当時の困難な事情と、分散した党活動が一種の無政府状態を生み出し、その結果党内には野坂参三のような右翼日和見主義と裏切り者、田中清玄などのような「左」翼冒険主義者を引き入れてしまった。これらの「左」右の日和見主義と裏切り者によっていくつかの事件がひきおこされ、党は重大な損害をこうむった。

 

そして日本共産党の再々組織と正しい中央指導部の確立は、日本帝国主義の敗北と第二次世界大戦の終了、その結果としての徳田球一らプロレタリア革命派とその指導者たちの解放と出獄を待たざるを得なかった。

 

 ▼一九三三年六月九日

佐野学、鍋山貞親の『転向

声明』

 

天皇制政府によるうちつづく日本共産党への大弾圧、逮捕と投獄、そして獄内でのテロと死刑のおどかし、これらの血の拷問に恐怖心をおこした党内小ブルジョア日和見主義の代表佐野学と鍋山貞親はこの日、連名で『転向声明』を発表した。

『緊急せる内外情勢を前にしてコミンターンおよび日本共産党を自己批判する』、『共同被告同志に告ぐる書』と題するこの声明は、日本には共産主義は不適当であり、天皇を中心にした大アジア主義こそ日本国民とアジア人の生きる道である、と書かれてあった。これは完全に敵への降伏であり、党と革命への裏切りであった。

だが、党中央で重要な位置にあったこの二人の転向声明は、党内に存続していた〝提唱派〟と右翼日和見主義分子に大きな衝撃をあたえた。そしてこれらの小ブルジョア分子は佐野と鍋山につづいてぞくぞくと転向を声明し、ここに、世界の革命運動史上にもまれな一大〝転向運動〟が発生したのである。

当時の司法省の発表によれば、その後一ヶ月のうちに、未決囚の三〇%、既決囚の三六%もの共産党員が転向を上申した。そして三年後には治安維持法による被逮捕者のなかの七四%もの人が転向してしまった。

この事件は日本共産党の歴史上忘れることのできない大きなキズあとであった。

そして徳田球一とプロレタリア革命派だけがただひとり、断固として転向を拒否し、階級的良心を守り、民族と人民に忠誠を誓い、党と革命を信じ、マルクス・レーニン主義の原則を堅持して闘ったのである。

徳田球一の獄中十八年の非転向こそ、日本共産党プロレタリア革命派の輝かしい、そして偉大な、誇るべき赤旗であり、プロレタリア革命派が断固として継承しなければならない伝統である。

 

▼一九四五年十月十日

 徳田球一らプロレタリア

革命派幹部の出獄

 

この年の五月八日ドイツが無条件降伏。八月十五日には日本帝国主義も無条件降伏。第二次世界大戦は終わった。

日・独・伊のファシズム国家に反対して連合したソ・中・米・英を中心にした連合国の〝反ファシズム解放戦争〟は偉大な勝利をもって終わった。

こうした背景のもと、十月十日に徳田球一は他の同志らと共に、日本共産党プロレタリア革命派中ただ一人の指導者として生き残って出獄した。

徳田球一はすでに獄中においてプロレタリア革命派の主な活動家と協議しつつ作成していた政治文書『人民に訴う』を発表、休むひまもなく公然たる階級闘争と党の再組織にとりくんだ。

 

▼一九四五年十二月一日―

三日

日本共産党第四回大会開催

 

出獄したプロレタリア革命派の代表徳田球一の指導のもと、日本共産党第四回大会が、はじめて東京で合法的に開かれた。

大会は徳田球一の政治報告を全面的に承認し、徳田球一を党首(書記長)に選び、革命的行動綱領を採択した。

ここに日本共産党は、はじめて公然たる、大衆的な、合法的前衛党として再組織された。そして『三・一五』『四・一六』の大弾圧で壊滅した党中央と党組織を完全に再組織した。

歴史は一貫して徳田球一とその日本共産党(行動派)こそが日本革命と日本共産党の偉大な赤旗であったし、一貫して正しかったことを証明した。

そしてまた、徳田球一亡き後はそれをひきついだ大武礼一郎とその路線こそが常に正しかったことをいくたの歴史的事実によって証明した。

 

()徳田球一と日本共産党の革命的伝統を断固として継承する正統マルクス主義の党、日本共産党(行動派)!

 

一九五五年七月二十九日、日本共産党はこの日に第六回全国協議会を開催した。スターリンはすでに死亡、徳田球一も一九五三年十月北京にて死去、その後の党は野坂参三が中心になり、志賀義雄と宮本顕治が協力して、ソ連共産党のフルシチョフ修正主義の支援のもと、徳田球一の否定と、日本における修正主義の道を開く、そのための「六全協」である。

日本共産党の第六回全国協議会(六全協)では、いったんは党外に追放され、いったんは徳田球一の前に自己批判した宮本一派が、この機会に党復帰し、ついに党中央の実権を握るに至ったが、この「六全協」はまったく日本共産党の全党の意志でやられたのではなかった。それはフルシチョフ修正主義が出現したソ連共産党(スターリンなきソ

 

 



連の党)と、徳田球一亡き後の野坂参三ら党内小ブルジョア派が合作した代物であった。党内のプロレタリア革命派はこれに批判的であり、これを承認しなかったのである。

徳田球一とプロレタリア革命派の指導下に闘った多くのプロレタリア幹部は、党の革命的伝統を守るため、断固として『六全協』に反対した。しかしそのほとんどは党の指導機関から排除され、弾圧された。大武礼一郎もまた、当時党関西地方委員会の幹部として『六全協』に反対したが、あとで指導機関から排除されてしまった。そのため大武礼一郎は生産点と職場に深くはいり、下から、大衆闘争のなかから、宮本―志賀ラインに対する闘争を開始したのである。

一九五八年七月二十一日―八月一日、日本共産党第七回大会開催。この大会は宮本―志賀ラインの右翼日和見主義の全党支配が完成するかどうかという、党にとって歴史上の分岐点ともなった大会であった。

大武礼一郎は党内部における最後の闘いとして、指導機関の推薦を受けることなく大会代議員に立候補し当選、第七回大会に出席した。そして大会議長団に『五〇年問題』に関する文書を提出、宮本―志賀ラインの『国際派』こそ、分派であり、彼らは完全な右翼日和見主義であると非難、大会がこの問題を討論するよう求めたが、宮本―志賀ラインの議長団はこの文書を排除、そのまま五〇年問題委員会の名によって送り返された。

かくしてこの大会は完全に宮本路線が支配し、以後党指導機関は右翼日和見主義によってぬりつぶされ、〝行動派〟の伝統、プロレタリア革命派の伝統をうけつぐ幹部は中央から、各指導機関から一掃されていったのである。

第七回大会の結果を検討した大武礼一郎は、宮本路線は明確な修正主義であり、いまや完全に全党を支配した。したがって彼らと闘争し、党を再建するという仕事は、長期にわたる日本革命と日本の階級闘争における基本的任務になったのだという結論に達したのである。

そのため大武礼一郎は現実の人民闘争と階級闘争にとりくみつつ、このなかから新たなプロレタリア革命派を結集し、真のプロレタリア革命派幹部を形成する以外にないと考え、その作業にとりかかった。同時に工場と生産点に偉大な根拠地を築くべく、一九六一年の末、自ら工場のなかにはいり、労働運動にとりくみつつ、中核と根拠地を設営した。そしてこの長期かつ困難な闘争は宮本修正主義からの連合した攻撃をはねかえし、一九六六年末には基本的に勝利し、根拠地は完成した。

一九八〇年七月十五日、日本共産党の創立記念日であるこの日、東京で日本共産党(行動派)再建第七回大会が開催された。大会は大武礼一郎の呼びかけにこたえて、日本共産党のプロレタリア革命派、共産主義者同盟(国際主義派)、階級的・行動派労働運動団体、青年同盟、婦人同盟、など革命団体と革命組織の代表数十名が出席した。大会は宮本修正主義と決別した真の革命的前衛党、行動派の党、日本共産党(行動派)の再建を高らかに宣言した。そして大会は『綱領』と『規約』を採択し、偉大な文献『新・共産党宣言』が大武礼一郎の手によって内外に発表された。徳田球一の党、プロレタリア革命派の党、行動派の党はここに再建されたのである。

 

 

 


 ▼一九四五年十月十日、獄中十八年、非転向を貫いた徳田球一と七人の戦士たちが出獄、この旗のもとに戦後日本共産党の再建と、怒濤のごとき戦後日本労働運動の高揚を闘い取ったのである。

 

()われわれは何者か!

 

われわれは一般的(国際的)にはマルクス主義の原理・原則の擁護者であり、マルクス主義復興運動の旗手であり、レーニン主義的(ボリシェビキ的)党建設の推進者である。

われわれは特殊的(国内的)には徳田球一と日本共産党の革命的伝統の継承者であり、宮本修正主義と決別して正統マルクス主義の党・日本共産党(行動派)を再建した大武思想の党である。

故にわれわれは、内外と目前に発生したあらゆる問題と課題に正しく答え、正しく導き、正しく指導し、解決する責任と任務を背負っている。そして歴史はわれわれに前衛としての責任を果たすよう求め、期待している。われわれは断固として歴史の要求に答えねばならない。ここにわれわれの党派性がある。そのための指針が『活動指針』(二〇一七版)である。

国際的には、フルシチョフが出現して「スターリン批判」を展開したその瞬間から、われわれは一貫して、これはマルクス主義の哲学原理に違反しており、そしてこれは早くからレーニンが警告していたとおり、まさにフルシチョフは修正主義的裏切り者であると断定、以後一貫してこれと闘ってきた。

国内的には、日本共産党に宮本修正主義が出現、党の創立者徳田球一を否定したその瞬間から、ここに日本における修正主義があると断定、以後一貫してこれと闘った。そして徳田球一が創建した「獄中十八年・非転向」という日本共産党の不屈の革命精神と革命的伝統を守り抜いた。日本共産党(行動派)歴史年表をみよ。

中国における文化大革命が日本共産主義運動に刺激をあたえ、日本国内に「文革左派」が発生したとき、中国共産党のあるチームからわれわれに一定の要求(左派連合)があったとき、われわれはマルクス主義の理論上の原則にもとづきこれを拒否した。その後の歴史はわれわれが正しかったことを証明している。

そして今日、イラク戦争が発生したとき、この帝国主義戦争はアメリカ帝国主義を崩壊へ導くだろうと予告した。こう主張したのはわれわれだけであったが、現代の歴史がその正しさを証明している。

われわれは常に、一貫して、正統マルクス主義とその理論上(思想上)の原理、理念、原則を守り通し、それを止揚しつづけた。マルクス主義の歴史と現代史がわれわれの正しさを立証している。そしてこれらの闘いと運動においては常に大武礼一郎を中心に全党が統一し、団結し、結束した。ここにわれわれの誇り、われわれの確信と信念がある。そしてこのような歴史が、科学的証明として「わが党は正統マルクス主義の党であり、大武思想の党である」ことを決定づけたのである。

 

以上の歴史年表は『革命的党史観に関する5項目』の基本原則の正しさを確認した。

()わが党の創立、それはプロレタリア国際主義(コミンテルン)と日本労働者階級と日本の革命的前衛とが固く結合した結果の産物であった。

わが党は生まれながらにして国際主義者であったし、日本労働者階級のもっともすぐれた前衛であった。これは永遠にわが党の党性である。われわれは永遠にこの党性を継承しなければならない。

()わが党を創立したのはいったい誰か。それは徳田球一であった。創立以後の日本共産党を常に正しく指導してきたのは誰か、それは徳田球一であった。わが党はいくたびか、内と外からの攻撃にさらされ危機に立ったが、その度に党を救ったのは、徳田球一であった。そして歴史的に形成された日本共産党の指導者、それは徳田球一、渡辺政之輔、市川正一である。

()われわれが1955年の6全恊で、宮本修正主義によって中央を奪われた時、それは当時、中央 にいた幹部が思想的に宮本顕治とその一派に妥協し、ついに自らも堕落していったからである。

()歴史を否定するものは否定される。レーニンの『否定の否定』である。われわれは断固としてマルクス主義的世界観と、労働者的感情・実践的立場にしっかりと立脚し、党史を継承し、止揚する。

()党の歴史と年表は、まさに日本共産党(行動派)の歴史と伝統は不滅であり、そして徳田球一から大武礼一郎へと、引き継がれていったことがよくわかる。これこそ革命的プロレタリア人脈であり、プロレタリア歴史観であり、マルクス主義的党史観である。

 

()インタナショナルの歴史と教訓!

 

▼一八七一年のパリ・コミューンの敗北は第一インタナショナル内に敗北主義を生み、内部の対立と分裂により一八七六年に解散された。

▼一八八九年七月十四日、国際労働運動の発展と高揚はマルクス主義の復興とインタナショナルの再建を求め、この日パリで第二インタナショナルが結成された。エンゲルスは最高顧問へ。

▼一九一二年一月十八日、プラハに十四人のロシア社会民主労働党の左派が集合、レーニンの主張のもと、メンシェビキと決別し、正統マルクス主義のもとに、独立した「ロシア社会民主労働党(ボリシェビキ)」を結成した。この党のもとでロシア革命の勝利と第三インタナショナルの創立へと前進するのである。

▼一九一四年八月、第一次世界大戦の開始と共に内部に発生した対立と分裂によって第二インタナショナルは解散に追い込まれた。

▼一九一五年九月五日から八日まで、スイスの小さな町、チンメルワルドに第二インター内の左派は、マルクス主義の擁護とインターの再建をめざして集まった。その中でレーニンはこの帝国主義戦争を内乱に転化させ、革命をめざすという正統マルクス主義を主張した。集まった四十人の中でレーニンのもとに結集したのは六人であった。この六人が核となり、ロシア革命の勝利と第三インタナショナルの結成へと前進するのである。

 


今日の歴史時代は、アメリカ帝国主義の崩壊と、資本主義の終焉・世界史の転換という巨大な爆発と収れん期にある。それは必然性をもってマルクス主義の復権と、社会主義の再興を求めている。今日すでに内外にその兆しが見えている。この運動はいくつかの偶然性を経て、必ず、大武礼一郎が発表した〈学習のすすめ〉とその内容、マルクス主義に関する根本原理・基本理念・理論上の原則に向かって収れんされるであろう。この〈学習のすすめ〉の全内容は正統マルクス主義に関する哲学・経済学・社会主義学説の全体系である。

 

  われわれは〈学習のすすめ〉に示されたマルクス主義の全体系、その原理、理念、理論をしっかり身につけ、実践しなければならない。

 

 

結 語

 

▼われわれは正統マルクス主義者である。われわれはその日本における唯一の党、大武思想と行動派党である!

▼われわれは哲学・科学の統一された絶対的真理を堅持した、人民と歴史の進路を導く灯台、羅針盤、道しるべである!

▼われわれは歴史の要求と、人民の要求と、運動と闘いの要求にもとづいて存在しているのであり、歴史が必然性に到達するまで存在し、運動し、闘いつづける!

▼われわれの思想信条は、マルクスが愛したあの言葉「汝の道を行け、人には語るにまかせよ」である!

▼われわれは歴史の中から生まれ、歴史と共に存在し、歴史と共に永遠に不滅である!

▼日本共産党の創立万歳! 徳田球一万歳!

▼日本共産党(行動派)の革命的伝統万歳!

▼正統マルクス主義・大武思想万歳!