2021年10月25日 №506

2021年10月25日 №506

自民党総裁選の本質は何か

 

河野太郎氏優勢の事前予想を覆し、岸田新総裁を実現したのは安倍元首相らいわゆる「3A」(安倍晋三、麻生太郎、甘利明各氏)を中心とする旧勢力の危機感が生んだ逆襲の産物であった。

 

 

自民党の支配体制は資本主義の終焉とともに、衰退し、崩壊しており、歴史は新しい社会体制を求めている。それは協力と連帯の共同体社会である。野党と進歩的勢力は、歴史科学に目覚めよ!

 

▼自民党総裁選は9月29日、投開票され、岸田文雄前政調会長(64)が、決選投票の結果、河野太郎行政改革担当相(58)を破り、第27代総裁に選出された。当初、党員・党友を中心とする第一回投票で、河野氏が圧勝し、その勢いで河野氏が新総裁に選ばれる、と予想されていた。仮に、決選投票になっても国民の意向を汲んだ第一回投票の結果を国会議員も無視できない、と言われていた。しかし、実際には旧勢力の逆襲にあい、第一回も僅差で勝ち、決選投票では、岸田氏が圧勝したのである。

そもそも、この度の総裁選は、支持率の低い、菅義偉首相のままでは選挙が戦えない。「勝てる顔選び」が事の発端であった。顔として名乗り出たのが、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏の4氏であった。また実際、「顔選び」「勝ち馬」探しが公然と始まった。派閥は求心力を失い、混乱・混迷を深めていた。

9月10日には、全派閥を縦断する「党風一新の会」が発足した。何と90人の中堅、若手が参画した。代表世話人には福田達夫氏(細田派)、津島淳氏(竹下派)、山田賢司氏(麻生派)、古賀篤氏(岸田派)、山下貴司氏(石破派)らが「顔選び」に名乗りを挙げた。

しかし、この頃から、「選挙の顔選び」に変化の兆しが表面化。各社の世論調査では「菅首相の総裁選不出馬」によって、自民党の内閣支持率も上がり、自民党支持率は8月から9ポイントも上がり、48%にもなった。若手の間からも「これなら総裁の顔が誰であれ、選挙は大丈夫だ」という空気が党内を支配することとなった。

これ見よがしに安倍政権を支えたいわゆる「3A」(安倍晋三、麻生太郎、甘利明各氏)の出番が来たとばかりに、介入を始めたのである。つまり「異端児」の河野太郎氏でなく、従来の規律を守り、無難で、敵のいない「勝ち馬」の岸田文雄氏を新総裁にしよう、と言い出したのである。彼らは「自民党のリベラル化」を危惧。麻生氏も「河野崩し」を黙認した。

9月30日付の「日本経済新聞」は「勝敗決した2日前の会談」「安倍・麻生・甘利氏でシナリオ」「岸田氏、党員票の差覆す」との見出しで伝えている。全く強引であった。

同じ30日付の「読売新聞」は、補足し、詳しく次のように報じた。

〈党内で、岸田新総裁誕生の「キングメーカー」と目されているのが、安倍氏だ。安倍氏は、無派閥の高市氏を全面支援し、20人の推薦人確保もおぼつかない状況から国会議員票で2位の114票を獲得させた。ほとんど交友のない若手議員の携帯電話も次々と鳴らし、なびかない議員には「保守票が離れるよ」と揺さぶった。

安倍氏の猛烈な入れ込みように、岸田派内では「岸田氏でなく、本気で高市氏を勝たせるつもりなのか」との疑心暗鬼も広がった。だが、安倍氏の狙いは、高市氏の躍進で、河野氏と岸田氏の決選投票に持ち込ませ、岸田氏勝利につなげることだった。

岸田氏も選挙戦の間、ひそかに安倍氏と面会や携帯電話でのやり取りを重ね、決選投票に向けた支援を訴えた。27日には、岸田氏陣営で選対顧問を務める甘利明税制調査会長に対し、安倍氏は「岸田さんはしっかりしてきた。たくましくなった。信用できる」と語った。甘利氏は「岸田・高市連合」が合意できたと受け止めた。投開票後、安倍氏は「河野氏の票を引きはがした」と満足そうに周囲に語った。〉 

 

これが出来事の真相である。すべては力と実力が決定している。投票や選挙などという民主主義とは違うのである。旧勢力の代表、安倍、麻生、甘利の3Aによる逆襲であった。総裁選や党内の出来事は今や彼らでないと手に負えなくなっている。それほどまでに自民党はもう瓦解し、崩壊しているのである。旧勢力の代表、彼らの登場は追い詰められた結果の産物であった。

 

 岸田新総裁は30日までに役員人事、新内閣の主な人事を決定した。その性格は新聞が端的に表現していた。〈岸田人事・安倍カラー〉(朝日新聞)〈岸田氏「3A」が後ろ盾>(読売新聞)と10月1日付の新聞がつけた大きな見出しの通りである。11月総選挙は人民の怒りに直面するであろう。早くも新聞などには短期政権の声が出ている程である。

 

新しい歴史は新しい社会、共同体とコミュニティ社会をもとめて爆発する。今後、資本主義の崩壊と共に、自民党は苦悶を深め、求心力を失って行くであろう。

 

人類の未来は、格差社会や絶望の資本主義でなく、新しい社会は、みなが、協力し、共同し、連帯して生きる共同体社会、コミュニティ社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。現代は壮大なその過程にある。歴史科学万歳!

 

歴史は真の前衛党、マルクス主義的革命政党の出現が待望されている。ここに歴史の必然性がある。われわれ行動派共産党はその核である。

 

▼さて、11月は解散・総選挙である。野党はいかに戦うのか。すでに野党4党(立憲、共産、社民、れいわ新撰組)は9月8日、市民団体の呼びかけで、「安保法制の廃止と立憲主義の回復をもとめる市民連合」(市民連合)と合意している。

 

問題は「野党共闘」である。9月30日、立憲民主党の枝野代表と共産党の志位委員長が国会で会談。立憲が衆院選で政権を取った場合、「限定的閣外からの協力」をめざすことで一致した、と発表。

101日付の新聞にその内容が詳しく紹介されているが、はっきりしないのである。それが見出しによく現れている。〈「連合政権論」共産取り下げ〉(読売新聞)、〈政権枠組み初の合意〉〈あいまいさ残るも折り合い〉(朝日新聞)、〈首相指名国民のみ拒否〉、(産経新聞)、〈首相指名―国民、枝野氏への投票拒否〉〈共産含む枠組みと一線〉(日本経済新聞)……である。

 

以上の通り、「野党共闘」の中身がはっきりせず、曖昧である。それは当然である。「野党共闘」は議会主義的クレチン病である。イタリアをはじめヨーロッパの議会主義的共産主義政党が陥った病気である。敗北するまで完治しない不治の病である。

 

 「野党共闘」は違った別の政党が選挙で、つまり票をめぐって共闘するというものである。議会主義政党にとって票は命である。譲れないのである。仮に一時的に成果が上がってもやがて対立が発生し、破綻せざるを得ない。11月総選挙でもある程度、数の上では部分的に成功するだろうが、限界がある。やるなら「野党共闘」ではなく、一つの政党に統合し、選挙をやることである。1993年小沢一郎氏がそれをやり成功したが、それは「野党共闘」ではなく、反権力、反自民で「統合を前提」に結集したゆえに成功したのである。これは形の違った人民戦線思想であった。

 

「野党共闘」によって、仮に議席のやりくりで、政権交代が一時的に実現したとしても、内部の対立と抗争、新たな分裂を生み出し、取り返しのつかない大失敗を演ずることとなる。われわれは歴史科学の法則を学ばねばならない。

 

▼ここでわれわれは、歴史の教訓として、1958年、ドゴール独裁に道を開いたフランスの経験、つまり「共産党の票」を支持票とみとめず、総辞職したフリムラン内閣の裏切りの歴史的経験を忘れてはならない。これはフランスの経験だけでなく、現代の日本でも、世界でも似た事件は現実に起こっている。例えば日本では野党の一部に「共産党と共闘してもその票以上の票が逃げていく」という言い分はそれと同じである。そしてドイツでも9月26日、総選挙があったが、社民党に第一党を奪われた右派キリスト教民主同盟(CDO)のアルミン・ラシェット党首は「我々への1票は、左派系政権に反対する1票だ」と言い放ったが、表現は違っても同じことである。手段、方法の問題でなく、法則なのである。

 

 



 

これらはすべて共産党が議会主義に変質し堕落した結果の産物である。フランスの1998年の出来事と同じように、決定的な瞬間、重大な政治事件が必然的に起きるのである。

 

 

〈議会主義的「野党共闘」についての歴史の教訓〉

 

一九五八年に発生したフランスにおけるドゴール独裁権力の出現は、ヒトラーを生み出したワイマールと同じように、議会主義的クレチン病が原因であったことを忘れるな。すべては歴史の法則である。

 

 ヘーゲルは歴史上の大事件や、大人物は二度現れるといった。一九三三年のドイツにおけるワイマールがヒトラーを生み出したように、一九五八年のフランスにおけるドゴール独裁権力の出現は、姿や形は違っても、その本質はまったく一九三三年のドイツと同じであった。

 われわれは改めて、この二つの大事件に共通している議会主義という自由主義的民主主義の本質を、具体的事実を通じて認識しなければならない。

 マルクスはかつて「階級闘争の戦略・戦術に関して共産主義者はフランスから深く学ばなければならない。この面に関してフランスは宝庫である」と語った。フランス大革命と「人権宣言」がそうであり、ナポレオン帝政と「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」がそうであり、「パリ・コミューン」がそうであった。そしてここに記録した一九五八年の事件もそうである。

 フランスにおける第二次大戦後の国民議会で特徴的なことは、常にフランス共産党が第一党であった、ということである。一九四五年十月に実施された第二次世界大戦終了後の総選挙では共産党一五二議席、社会党一五一議席、人民共和派一三八議席、であった。一九四六年十一月の選挙では、共産党一八六、人民共和派一六六、社会党一〇三であった。なぜ共産党は常に第一党だったのか。それは歴史が生み出したものである。

 一九四五―六年の総選挙といえば、第二次世界大戦の直後である。第二次世界大戦中のフランスといえば、ナチス・ヒトラーの占領下におけるあの有名な「レジスタンス(抵抗)運動」を知らぬものはいない。数々の物語に、映画に、演劇に、小説に、詩に、その英雄的で、愛国的で、悲劇的な闘いと運動は、全世界に感動をよびおこした。ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』は世界の若者たちに、祖国と民族のために死すことの美しさを教えた。そして「レジスタンス」といえばそれはフランスの労働者階級であり、それはフランス共産党であった。フランスが敗れ、ナチスの手先としてペタン元帥のヴィシー政権が樹立された一九四〇年の末から、フランス全土に反ナチ抵抗運動がおこり、それは「闘争(コンパ)」「解放(リベラシオン)」「義勇隊(フランス・ティエール)」「国民戦線(フロン・ナシオル)」、あるいは「マキ団」などという各種の抵抗組織が生まれ、これには労働者も、農民も、商工業者も、政治家も、学者も、教師も、生徒も、婦人も、青年も、軍人も、官吏も、共産主義者も、カトリック僧侶も、自由文化人も、すべてのフランス人が参加した。ナチスの支配下にあっては、このレジスタンスに参加することは死を覚悟しなければならないものであり、報いられるものはなく、求められるものは苦難以外の何ものもなかった。目の前には拷問と死刑がまっているこの闘いに参加させたもの、それは「自由と人間性と祖国のために」であ

 

り、「ひざまずいて生きているよりは立って死ぬ」という民族的良心と人民的怒りであった。そして重要なことは、

 このレジスタンス運動の最も困難な部署を受け持ったもの、それはフランス共産主義者であった。だから最も犠牲の多かったのが共産党であり、この党は当時「銃殺される者の党」とよばれていた。レジスタンスの犠牲者三万、ドイツの収容所へ送られた者十五万、帰国できた者はわずか四万にすぎなかった。

 

やがて一九四三年二月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北、戦局はナチスの崩壊へとすすむ。これにあわせてレジスタンス各組織は団結・統一して、ここに『全国抵抗評議会(ソビエト)』を結成、一九四四年二月には武装した民兵によるフランス国内軍を編成した。一九四四年八月から全フランスは労働者のゼネストに突入、同時にパリは武装蜂起へ。八月二十四日、パリは連合軍と国内軍によって解放された。フランス解放は外からの連合軍、そして国内でのレジスタンス。レジスタンスは共産党。この空気は戦後のパリにおける映画館で、ニュース映画にスターリンが現れるや、場内は熱狂と大歓声につつまれたというエピソードがよく現していた。こうしたなかでの戦後の総選挙であったのだ。ゆえにフランス解放の最大の英雄、レジスタンスの英雄、フランス共産党が第一党になったのは当然ではあるまいか。

 こうしたなかで一九五八年がやってきた。当時第四共和制下フランス国民議会は、第一党がフランス共産党一四八議席、第二党は急進社会党九九議席、第三党は社会党九六議席、第四党は人民共和派七三議席で、以上が左翼を構成し、右翼には独立諸派五九議席、プジャード派三七議席、ドゴール派一六議席、その他五八議席、であった。

 そして第四共和政下の政府はみな弱体で、内閣が二十六回もかわるという状況であった。それは結局、中道政党による連立内閣が何もできない内閣で、何か重大な政治問題が発生するとすぐ分裂して崩壊していったからである。そのとき、もっとも革命的であるはずの共産党までが、議会主義に陥り、あるときは中道政党に引きづられたり、あるときは中道政党の連合のまえにボイコットされたりして、議会主義に陥ったにもかかわらず、議会の中ではいつも孤立していた。

 フランス国内で弱体内閣が右往左往しているとき、国外ではフランス植民地での民族闘争が高まり、つぎつぎとフランスは植民地を失っていた。そしていよいよ、フランスにとっては最後の植民地であるアルジェリア独立戦争が最後の段階に到達しつつあった。フランスの独占資本とブルジョアジーはアルジェリア植民地の支配権の保持、そのための本国における強力な政府の樹立を求めてドゴールの出場を早くから画策していた。だが、いくら選挙をやっても、議席の拡大にもとづく議会を通じたドゴール内閣の出現は不可能であった(ドゴール派はわずかの一六議席である)。独占資本にとっても議会はもはや無用のものとなった。

 ドゴールの独裁政権樹立のための実力行動、反革命的暴力、軍部と右派政治勢力の力によるクーデターは、いまやフランスにおける矛盾の集中地点たるアルジェリアではじまった。

 

 【一九五八年五月十三日】無能な中道連立政権たる人民共和派のフリムラン内閣が社会党や共産党の支持で組閣されたこの日、あくまでドゴール独裁政権の樹立を叫ぶ右派民

 

 


衆と軍部が合流して、アルジェリアの首都、アルジェでは大規模なデモが発生、その中の急進的な右翼デモ隊の千人は、「アルジェリアはフランスのものだ」、「無能な中道政権ではなく、ドゴールに政権を」と叫びつつ、アルジェ政庁に乱入、略奪行為をほしいままにするとともに、ここを占領、アルジェ放送局も占領した。デモ隊はそのあと「アルジェ公共治安委員会」の樹立を宣言。これはアルジェリアにおける唯一の政府であると内外に声明した。

 

 フリムラン首相は十四日、アルジェリア駐留フランス軍の総司令官・サラン将軍にアルジェの治安維持に関する全権を委任した。

 

 

 

【五月十五日】公共治安委員会はアルジェだけでなく、アルジェリア全域に組織された。そしてこれらの委員会を一つにまとめ統合した機能を保持するアルジェリア公共治安委員会が発足した。本国ではドゴール将軍がようやく腰を上げ、この日はじめて記者会見し「国家が私を必要とするならばいつでも出馬する」という声明を発表した。アルジェ政庁前広場にあつまった五千人の民衆は、ドゴール将軍の出馬声明が発表されるや、〝ドゴール!ドゴール!〟という大合唱をとなえた。社会党は「第四共和制の危機」をよびかけ、共産党は議会の招集を提案、フランス労働総同盟はゼネストの用意(用意だけだ)があると声明した。そして十五日の夜は社会党、共産党の議員は議会に泊まり込んだ(恐怖におののく日和見主義者のうろたえぶりをみよ)。

 

 

 

【五月十九日】ドゴール将軍はパリに姿を現して多数の記者団を前に演説した。彼は、いまやフランスを救うことのできるのは私だけである。フランスは私に任せるべきだ。(どのようにして政権をとるのか、という質問にこたえて)、現在は誠に異常な時期にある、したがってまたその政権は異常な手続きによってのみ可能だ。その異常な手続きとは具体的には何か、ということは情勢が解決する、と語った。

 

 

 

【五月二十五日】クーデター派のアルジェリア公共治安委員会スポークスマンは、ドゴール将軍の権力獲得を支持する運動は今やフランス領植民地の全体に波及したと発表した。フランス地中海艦隊のオーボーワノー司令官はドゴール将軍の権力獲得を支持する声明をアルジェリア公共治安委員会に送った。フリムラン内閣は、もはやドゴール独裁権力の樹立をめざして拡大されつつある公共治安委員会という名のクーデター権力をおさえることも、またこれとの妥協も不可能であることを知った。

 

 

【五月二十七日】ドゴール将軍は声明を発表した。「自分は政権樹立のための必要な手段をとる。フランスの国軍は国家と私に忠実であることを信ずる」と。フランス共産党政治局は反ドゴールの闘いに決起するようアピールを発した。共産党系の労働総同盟は二十七日午後二時からストライキを決定したが、多くの組合はこれに同調せず成功しなかった。フランスの労働運動にはもはや、あの輝かしいレジスタンスの伝統も、革命的英雄主義も消えてしまった。そこにあるのは無気力と意気消沈した改良主義のみであった。それは結局、労働者階級の前衛党たるフランス共産党が革命性を喪失して社会民主主義に堕落したことにあった。

 

 

【五月二十八日】この日の未明、第四共和制にとって実質上の最後の国民議会が開かれた。議会はフリムラン内閣が提出した憲法改定討議に関する決議案を賛成四〇八、反対一六五、の圧倒的多数で可決した。これはフリムラン内閣を信任してこの政府をあくまでおしたて、ドゴール内閣の出現を阻止しようとする議会の空気を反映したものであった。フリムラン首相はこの決議案が否決されれば総辞職する、と言明していたがゆえに、議会はフリムラン内閣信任、ドゴール反対、を表明したのである。ところがフリムラン内閣は、この決議案を支持した票の中には共産党の一四五票がある。しかし共産党は本当の支持票ではなく、自分はこれを認めない。したがってこれを差し引くと、この決議案は可決にはならない(可決の必要票は三分の二であった)。このように主張してさっさと内閣総辞職をしてしまった。フランスの第四共和制には、その憲法のどこをみても、共産党の一票を他の一票と区別するような項目は一つもない。にもかかわらずフリムランは憲法を無視し、議会主義を無視して第四共和制を破壊し、ドゴールへの道を清めていったのである。コティ大統領はこのなりゆきをみつめつつ、フリムランの辞職が

決定的となったとたん、直ちに大統領官邸当局のコミュニケとして「大統領は二十八日夜までには新内閣の首班たるべき人の訪問を求めたいと希望した」と発表した。待っていました、というばかりである。

 

【五月二十九日】コティ・フランス大統領は午後三時、国民議会に対して次のような特別メッセージをおくった。「私はドゴール将軍にこちらに来て政権について私と協議するよう要請する。いまやわれわれは内乱の一歩手前にきている。双方の陣営がいま兄弟互いに殺し合うような闘いの準備をしているようにみえる。これを救うのはドゴール将軍だけである。もしドゴール将軍のもとで政府をつくることができなかった場合には私は辞職する」。夜になってドゴール将軍はコティ大統領と会見、大統領の組閣要請についてドゴールは「私の政府は現在の重大な事態に対処するに必要な全権限を一定期間与えられるべきであること。また私の新政府は憲法改定、その他必要な法律の改定についても議会ではなく、直接国民投票に問う権限をあたえられるべきである」と答え、コティ大統領は無条件にこれを承認した。

 

【六月一日】フランス軍の決起、アルジェ公共治安委員会の総動員による本国への上陸、右翼と軍のクーデター、などのうわさに、国民議会は浮き足立っていた。フランス国民の大多数と議会の多数は「クーデターか、人民戦線か」、あるいは「ドゴールか、共産党か」の二者択一をせまられた。そしてその結果、民衆と議会の多数は、クーデターにおびえ、軍の決起による国内の混乱におびえ、「必要悪」として共産党よりもドゴールを選ぶ決心をした。

 こうして、午後七時半、議会は、議会外の重圧のなかで開会、ドゴールを、賛成三二九票、反対二二四票、という票決のもと、首相とみとめた。もちろんこの票決にあたってドゴールは、「六ヵ月間の間にすべての全権を付与すること。憲法を改定してこれを国民投票にはかる権限を付与すること」など、独裁的機能を自分に与えるよう求めていた。したがってドゴールへの信任はすべてこれらの全権をドゴールに与えることを意味した。これはまぎれもなき、議会のドゴールへの屈服であった。そしてドゴールは何をしたか。六ヵ月間の全権をにぎった彼は、やがて新憲法「ドゴール憲法」を作成し、これを議会にはかることなく国民投票にかけた。九月二十八日の国民投票は賛否およそ四対一の多数で新憲法を承認した。こうして一九五八年十月五日、第五共和制が発足、ドゴール時代へと進む。この時代はまさに「近代的帝政」の時代であり「ドゴール君主制」の時代であった。選挙法も改定された。十一月のドゴール支配下の総選挙では中道左派のマンデスフランス、ミッテランも落選、第四共和制下ではいつも第一党、第二党を保持していた共産党もわずか一〇議席に転落、以後フランス共産党は再び第一党にはなれない。ブルジョア独裁の実力による勝利であった。

 なお念のために付け加えておきたいことは、フランスの出来事は何もフランス独特のものではなく、同じことは、形を変えて、一九七六年のイタリアでもおこった。イタリアではこの年の総選挙でイタリア共産党が第一党になったが、いつも様々な妨害で政権は取れなかった。

 

結 語

 

 ⑴、アメリカは「20年アフガン戦争」で敗北、撤退した。世界は一極支配の破綻を目の当たりにした。アメリカ帝国主義は崩壊し、単なる一つの国に成り下がった。

 ⑵、世界中の主要な国々が集まっても、何も解決できない時代になった。各国は内政に没頭し、外交は二の次であり、外交とは内政の反映(哲学的内因論)であることを証明した。

 ⑶、国家は自立し、民族は独立し、大衆は自覚し、目覚めた人間の行動が激化する。対立と抗争、暴力とテロ、戦争と内乱はその過程の副産物である。

 ⑷、そしていま、歴史が求めている人類の世界、人間の社会とは、まさに大衆社会、人民の世界、人間性社会であり、人民の・人民による・人民の政治と国家であり、階級なき国家、近代コミュニティ社会である。

 ⑸、人民大衆を主体とした国家と社会こそ本当の民主主義、真の自由と平和の国家と社会である。それを保障するのは、直接民主主義の制度たる評議会である。人間欲望の自由放任主義にもとづく投票制度と議会主義という自由主義的民主主義はブルジョア政治の見本である。人民大衆にとっては、真の協力・共同・連帯・人間性あふれる自覚されたコミュニティ社会こそ、戦争のない本当の平和社会である。(以上)