2021年6月25日 №502

2021年6月25日 №502

《ロシア革命に関する『産経新聞』(1977年11月3日付)の古くて新しい記事から何を学ぶか》

 それは共同体社会、コミュニティ社会をめざす上で決定的なものは投票や選挙ではなく、評議会(ソビエト)に代表される力と実力であり、前衛政党の資質であり、決断と勇気である、という普遍的原理である!

 

過去・現代・未来は歴史科学において繋がっている。理論は実践の総括であり、歴史的に検証された科学である。マルクス主義の正しさはロシア革命が検証している。評議会(ソビエト)の事実を見よ!

 

 

  七月には東京都議会選挙があり、秋までには解散・総選挙が控えている。そればかりか夏の七月、八月には東京オリンピック、パラリンピックがある。それらを左右すると言われているのが、新型コロナウイルスの蔓延である。すでにウイルスは従来型から変異株に置き換えられており、緊急事態宣言を何回も繰り返すが、その効果は芳しくない。

 それでも菅首相と日本政府は国民世論の反対を押し切って東京五輪を強引に開催せんとしている。すべては選挙に勝利せんがためである。しかし東京五輪も新型コロナ対策も科学的な見通しは全くない。根本的には現代資本主義の危機と限界が生み出したものである。しかし直接的には国民の声を聞かない、反人民的政策にある。つまりIOCが開催を決定しているかぎりやるのが責務だという。この外因論が問題である。そうではなく、国民の側に立って、日本国内の声やコロナの現状、課題等について、IOCにはっきりと提起、議論したか否かである。内を固めて外線へ、この内因論の弱さが決定的である。ここに日本政府の敗北がある。日本は「国民国家」などではない。独占資本主義国家である。五輪をやるか否かは別に、現代資本主義の衰退は避けられない。一つの支配権力、一つの国家形態は永遠ではない。歴史のとびらは必ず開く。すべての出来事はその反映であり、そのために爆発している。

 現代のこうした転換の時代が、社会学者・大澤真幸氏の著作『新世紀のコミュニズム』〈資本主義の内からの脱出〉(二〇二一年四月一〇日NHK出版)を生み出したのである。大澤氏の著作は現代の先進的知識人の現状を代表した出版物である。特にその『まえがき』には次のような一説がある。「革命の熱狂が過ぎてしまえば、人々が約束されていた自由の代わりに、手に入れたものは商売の自由や私的所有権(言わば労働者を搾取する自由)でしかなかった。そこにブルジョワ革命の限界を見た。…今のままでは終わってみれば、コミュニズムとは程遠い、弥縫策的な小さな改革がなされただけだ、という事になるでしょう。…本書のねらいは死んで幽霊になることにある」と。

 大澤氏のこの一文は、マルクスの名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を想起して書いたものである。歴史が「さあ、どうする」と迫ってきたのである。歴史は前へ前へ進み、知識人を突き動かしている。大澤氏本人が言っている通り、「幽霊」になってでも、つまり妖怪(マルクス『共産党宣言』の冒頭の言葉)と言われようが、の覚悟で近著を表わしたのである。まさに、ここがロドスだ、ここで跳べ、である。

 現代資本主義の危機、共同体社会からコミュニティ社会(社会主義)へと進む、現代の歴史時代が、大澤氏を通じて「さあ、どうする」と迫ってきたのである。

 ▼ここで参考になるのが次の一文である。それは一九七七年十一月三日付の『産経新聞』に、当時の編集委員だった鈴木肇氏が、ロシア革命六〇周年を記念して執筆した文書である。鈴木氏のこの一文は、形の上では古い記事ではあるが、内容的には新しい問題、現代的意義を有する貴重なものである。なぜかと言えば、現代の歴史そのものが、回答しているからである。つまり戦争と平和の問題をはじめ、政治社会問題をみればわかる通り、物事はけっして投票や選挙では決していない、ということである。形の上では「民主主義」のように見えても、実際には別の機能が作用している。一切は運動と闘いであり、大衆を導く中核集団、前衛政党の資質であり、指導力であり、決断と勇気が最後を決しているかがよくわかる。

 ▼われわれはこれを機会に投票とは何か、選挙とは何か、新しい時代と社会が求める『評議会』(ソビエト)とは何か、について全面的に、歴史的に明らかにする。ぜひ、『産経新聞』に発表された当時の先進的知識人の先見性、科学性の現代的意義を汲み取り、それとあわせて、われわれの論説をよく検討し、学ぶよう訴える。

 コロナ禍に関らず、みな、選挙、選挙で、与党も、野党もすべての勢力が選挙に血眼になっている。こういう機会に、ロシア革命から学ぶのも価値があろうと言うものである。

 

一九七七年十一月三日付『産経新聞』に掲載されたロシア革命六〇周年を記念する鈴木肇編集委員の次の論説に注目せよ。ここには当時の先進的知識人の叫びがあり、生の声がある。

 

     なぜ少数派が勝ったか

       (反面教師のソ連革命)

 

 ロマノフ王朝の専制政治を終わらせた一九一七年二月(新暦では三月)革命当時、レーニンの率いるボリシェビキ党は全くの少数派だった。それが多数派の非ボリシェビキ勢力を抑え、十月(新暦十一月)には武装蜂起によってケレンスキー首相の臨時政府を倒して、ソビエト政権を樹立した。

 これが十月社会主義革命である。このように初めは少数派の共産党が多数派に勝って政権を握るということは、第二次大戦後も東欧、中国、インドシナその他で繰り返された。どうして、こんなことが起きたのか。六十年前のロシアと今の日本は状況が違うが、ロシア革命の歴史は、反面教師としてまことに貴重なのである。

 第一次大戦での敗北と国民生活の困窮、宮廷の腐敗と政府の無能などが原因で一七年二月に帝政が倒れた時、ロシア内外のボリシェビキ党員数は二万ないし二万五千人程度だったといわれている(当時のロシア人口は約一億四千二百万人)。六月に開かれた第一回全ロシア・ソビエト大会では〝農民党〟である社会革命党(エス・エル)が第一党、西欧の社民党に当たるメンシェビキが第二党で、ボリシェビキ代議員は全体の約一〇%を占めたにすぎなかった。

 夏から秋にかけてボリシェビキは急速に勢力を伸ばし、十月革命当日に開かれた第二回全ロシア・ソビエト大会では、エス・エル右派とメンシェビキが武装蜂起に反対して退場したため、エス・エル左派とともに絶対多数を制して蜂起を承認させることができた。

 しかし、ボリシェビキは十月革命直後でさえ、国民の四分の一の支持しか得ていなかった。すなわち、十一月に行われた憲法制定議会の選挙では、投票総数約三千六百万のうちボリシェビキが得た票は約九百万にすぎず、エス・エルの約二千百万(五八%)に遠く及ばなかった。この制憲議会の開催は多年、国民の念願であり各党の公約でもあったが、いよいよ一八年一月に召集されると、翌日にはボリシェビキによって武力で解散させられてしまった。

 武装蜂起によって政権を握った少数派がなんとしてもその政権を維持しようとするなら、多数派を力ずくで抑えつけようとするのは避け難い。こうして十月革命後には、自由主義政党である立憲民主党(カデット)に続いてボリシェビキ以外の全政党の非合法化、指導者の投獄、新聞・出版統制、反革命鎮圧非常委員会(チェ・カー)設置と赤色テロなどが次々に行われた。制憲議会の強制解散は、三年にわたる悲惨な国内戦の口火となった。

 

          大衆の気分とらえる

          (鉄の規律と権力への執念)

 

 少数派だった彼らがなぜ急速に勢力を伸ばし、多数派を抑えて政権を獲得、維持し得たかについては、いくつかの理由が考えられる。

 第一に、ボリシェビキは組織と規律、権力への執念という点で、他の諸政党をしのいでいた。レーニンが考え出した民主集中制という名の組織形態、つまり少数のベテラン職業革命家が中枢にあって党員および大衆を指導する軍隊式の党組織のあり方が、あの激動と混乱の時代には威力を発揮した。さらにボリシェビキは国家権力を重視し、いったん獲得した以上は絶対に手離すまいとしていた。それにひきかえ、他の主要政党は組織がルーズで、左右両派と中間派に分かれ、行動力を欠いていた。とくにメンシェビキには、権力への熱意が乏しかった。

 第二に、大衆の気分にアピールする点で、ボリシェビキのほうが有利な立場にあった。帝政が突然倒れたことで、ロシアの既成秩序は急速に崩れていった。農民は地主の土地を接収し、放火や略奪がひん発した。兵士は戦いにあきた。農村出身の兵士は、早く故郷に帰って土地の分配に加わろうとし、脱走者が続出した。都市では食料、燃料不足が続いていた。こうした情勢の中で、ボリシェビキは大衆の切実な願いを「平和とパンと土地」という簡潔なスローガンに要約し、得意の宣伝、扇動によって大衆をさらに急進化させていった。

 第三に、ボリシェビキの勝利は、レーニンのずばぬけた指導力とカンの鋭さによるところが大きい。レーニンは革命のためだけに生まれてきたような人で、情勢掌握と戦術転換の巧みさは驚くべきものだった。

 第四に、非ボリシェビキ陣営内の甘さと分裂が、ボリシェビキを助けたことは明らかである。一七年七月、臨時政府は急進化したボリシェビキ系労働者、兵士の武装デモを鎮圧し、トロツキーらを逮捕した。レーニンは地下にもぐるハメとなった。だが、弾圧は手ぬるいもので、ボリシェビキはすぐに立ち直ることができた。また同年八月のコルニーロフ将軍の反乱は臨時政府の命とりとなり、十月革命成功への道を開いたものだが、もしこの時ケレンスキーが反ボリシェビキという点では共通の立場にあるコルニーロ

 



フやミリューコフらと一体となって行動したなら、その後の歴史はどうなっただろうか。

 また専制政治に反感を持つロシア人の知識人には、一般に反権力の気風が強く、二月革命後には警察が〝民主化〟されて、治安維持機構が骨抜きとなった。軍隊内の秩序崩壊と並んで、これもまた臨時政府の墓穴を掘ったのである。

 このような知識人の反権力気風は、いまの日本にも一脈通じるものがあり、ロシア革命の歴史には教えられることが多い。                                                                    (編集委員・鈴木 肇)

【註】一九〇三年のロシア社会民主労働党第二回大会で、レーニン派は中央集権的な党組織を主張、マルトフ派は分権的な党組織を主張して対立した。この時、多数派となった前者がボリシェビキ(後の共産党)、少数派となった後者がメンシェビキと呼ばれるようになった。またソビエトとはロシア語で評議会、代表者会議という意味で、革命の権力機関のこと。いまのソ連ではソ連最高会議を頂点に、各級のソビエトがある。

 

 以上が当時の産経新聞の記事である。見出しを含めすべて原文のまま。

 

ロシア十月革命の勝利は、一九〇五年の第一革命で初めて誕生したソビエト(評議会)権力の成長転化であった。けっして投票や選挙による多数派の結果ではなかった。産経新聞・鈴木編集委員の証言を見よ。

 

       投票による選挙とは何か。それはブルジョア権力の

       愚民政策である。

 

 投票によって政府や政治家を選ぶという方法が出現したのは紀元前5世紀の古代ギリシアであった。ギリシアには当時多くの都市国家(ポリス)が生まれたが、その中のアテネは早くから市民参加型の政治が発展し、やがて投票によって政治指導者を選ぶ方法が採用されるに至った。そして投票用具に用いられたのが陶器の破片であった。投票の結果、市民に人気のない指導者は追放された。そこから歴史上「陶片追放」という言葉が生まれた。結果としてこの制度は、結局は人気投票となり、そこから大衆迎合(ポピュリズム)という悪しき風習が作り出された。そしてそこからこの方法は政治指導者や、政党間にとって人気取りの政争道具になった。アテネでは政治の無能力と分裂を生み出し、国力は低下し、やがて隣国のスパルタに敗北した。

 ここで改めて、はっきりと、投票とは何か、ということを考えてみなければならない。選挙と投票に人びとを駆り立てる行動、何が人びとを投票に行かせるのか。それはあくまでも個人の自由主義、自由行動なのである。すべて個人的事情が根底にある。その契機となるものは、あるときは気の向くままであり、そのときの気分であり、風の吹くままであり、付和雷同である。ある人にとっては個人的知り合い、同郷の人、学閥、同好会、宗教心、名誉欲、そして金であり、物品であり、強制である。ここに個人行動と自由主義と無政府主義がある。だから投票というのは、大衆の後れた部分、社会と切り離され、孤立した個人、個人的幻想と錯覚と夢想にもとづく行動であり、ここに愚民性と衆愚性の本質がある。

 

 しかしこの制度は大衆支配の手段、ブルジョア自由主義の装飾物として、より巧みに引き継がれていく。つまりは大衆の理性・自覚ではなく、その本能を利用し、本能を駆り立て、自由主義を叫びたて、風の吹くまま、気の向くまま、行き当たりばったり、そのときの個人的感情によって誰かに投票するという、まさに無政府主義、愚民主義、衆愚主義という、ブルジョア政治の根幹になってしまったのである。

 

          自覚した大衆は偉大であり、無自覚な大衆は烏合

          の衆である。ブルジョア権力は愚民政策で大衆を

          支配する。その実例はナチス・ヒトラーと田中角

          栄が立証している。大衆の二面性を知れ。

 

 

 選挙と議会と投票制が如何にブルジョア独裁(武力と強権と買収)を覆いかくすもの、その衝立、その装飾品、よろいを隠す衣(ころも)であるかを証明するものはいくらでもある。ヒトラーはあまりにも有名である。一九三三年十一月に実施されたドイツ総選挙は、96%という高い投票率と、92・2%という最高の得票率で、ドイツの運命をヒトラーに託するという全権委任法を採択した。ナチスのファシズムはドイツ議会が満場一致で承認したのである。日本も同じことで、日本軍国主義ファシズムとその一貫した侵略戦争は、日本帝国議会の全面的支持と協力のもとで進められた。軍部を批判する発言があると、議会自身がそういう議員を除名した。有名な事件ではロッキード問題がある。日本の歴史上では現職の総理大臣による疑獄事件として最大のこの犯罪で、田中角栄は一九八三年十月の一審判決で有罪となった。しかしこの年の12月総選挙、いわゆるロッキード総選挙で、当時の世論調査で日本国民の80%が田中退陣を求めているにもかかわらず、彼は日本憲政史上議員としては最高の得票率(46・5%)と、最高の得票(22万票)を獲得した。こうして田中角栄は、自民党最大の派閥、田中派を維持掌握しつつ、長期にわたって、死ぬまで日本政界に君臨したのである。内外にわたるあらゆる政治的事件や事実は、議会と選挙と投票制が、古代ギリシャ以来今日まで、独裁政治の愚民政策として運用されてきたことを見事に証明している。

 

「アラブの春」はその後「アラブの冬」となった。投票による選挙という愚民、衆愚政治の結果、以前よりもいっそう後退した混乱と混迷と迷走を生み、結局は元の独裁権力の出現となった。

 

 二〇一三年七月三日、エジプトで軍事クーデターが発生、モルシ大統領と現職の政治指導者は全員逮捕・投獄・追放された。エジプトでは三〇年間のムバラク軍事政権の独裁が大衆デモで崩壊、二〇一二年六月、エジプト史上初の投票による選挙でモルシ大統領が出現した。憲法にもとづいてあと三年も任期があるのに軍の力で追放されたのである。これが投票による議会主義の末路であり、選挙を通じた民主主義の本質がここにある。

 二〇一〇年十二月、チュニジアから始まった「アラブの春」は、リビア、イエメン、バーレーン、そして中東の大国エジプトへと拡大、「アラブの春」といわれる大変革をもたらした、これらの国々は二〇年から四〇年間にわたる独裁権力を、大衆デモと大衆行動と大衆的圧力によって打倒し、いわゆる民主主義政治を実現させた。つまり選挙によって民主主義を成立させたのであった。だがその後の歴史的事実をみればわかるとおり「アラブの春」をうたったこの国々はみな、経済の低迷、失業と貧困、治安の悪化、政治の混迷、テロの拡大に苦しみ、大衆の不満はいたるところに満ちあふれた。そしてエジプトの軍事クーデターである。そして「アラブの冬」となった。どこに選挙による民主主義の成果というものがあるのか。

 

     『評議会』とは何か。人民にとって直接民主主義、

          人民の権力機関、権力におけるトップダウンとボト

          ムアップの統一体、ここに評議会の本質と意義があ

          る。この思想性と政治性を正しく認識せよ。

 

 権力とは力であり、実力であり、国家の支配機構であり、その最大の物質力こそ軍事力である。人類の歴史を見ればわかるとおり、原始共同体社会が崩壊して奴隷制国家が生まれて以来、封建制、資本主義制、そして独占と帝国主義を通じて常に戦争と内乱、テロと暴力は絶えることがなかった。その根幹はすべて権力闘争であった。政治闘争は権力闘争であり、権力闘争は力(経済力、政治力、行動力、軍事力)が決定する。

 そして歴史科学が要求する歴史の転換、人民による人民のための人民の政治と社会の実現もまた権力闘争であり、権力が解決する。その人民の権力、人民の力、人民の武器こそ、直接民主主義の執行機関たる評議会なのである。

 評議会とは人民大衆がその属性に従ってそこでの直接大衆討論、大衆討議を通じて、共通の認識と共通の意思を確認し、決定し、評議会として権力執行する。これは人民大衆の各界、各層、各戦線、各地区において下から上へと積み重ね、最終的には全国評議会に集約され、収れんされる。これがトップダウンとしての権力を支えるボトムアップなのである。トップとボトムの統一は、対立物の統一であり、指導上の正しい哲学原理である。

 そしてまたこのような人民権力であってこそ、人民大衆の創意は反映され、人民は自覚して闘うのである。

 

 

     評議会の歴史について

 

 歴史上初めて評議会が出現したのは一九〇五年のロシアにおける第一革命であった。この年の五月から八月にかけてロシア第一革命は高揚期を迎え全土に革命の嵐が吹き荒れた。その中で革命運動の主力であった労働者はロシア全土でデモと集会とストライキでツァー(皇帝)政権打倒に突き進んだ。そのとき、ペテルブルグ、モスクワ、バクーなどの主要都市の大工場、大企業では工場、企業毎に評議

 

 

 

 

 

会が組織された。これは、労働組合員、非組合員、政党、政派、宗派に関係なく、そこに働く労働者全員の集会での決議にもとづき、職場の意思を確認する機関としての評議会であった。職場では職場評議会、その代表者による工場評議会、その代表による企業(事業所毎の)評議会、その積み上げによる産業別、そして地域毎の、さらに県、州、そして全国的評議会へと拡大していった。

 ロシアにおけるこの第一革命は敗北に終わった。しかしレーニンと党は、敗北の中から偉大な勝利の芽をつかんだ。それがソビエト(評議会)であった。レーニンはソビエトこそ革命権力であり、その萌芽であると認定した。事実、一九一七年の本格的革命、十月社会主義革命ではソビエトに権力は移行したのである。

 一九一七年の十月の社会主義革命では、労働者代表ソビエトに、まず兵士が合流した。兵営毎に組織された兵士代表ソビエトである。

 つぎには、農村と農民のあいだにも、労働者に習って農民ソビエト、農村ソビエトが出現して労働者・兵士ソビエトに合流した。こうしてレーニンとボリシェビキは「全権力をソビエトへ!」というスローガンのもと、ついに国家権力を獲得したのである。

 

     評議会の歴史的教訓について

 

 前項で明らかになったとおり、ロシア革命の勝利は、ブルジョア権力に対抗し、ブルジョア権力と併立し、存在した革命権力たる評議会(ソビエト)があったからこそ勝利した。その反対に、同じ頃に発生したドイツ革命は完全に敗北に終ったのは、革命権力としてのソビエト(評議会)が存在しなかったからである。つまりドイツ革命を指導したのは、スパルタクス団という名に代表された一揆主義が、ただひたすら街頭主義と武装蜂起だけに頼ったからである。この点についてレーニンとは理論的・思想的に根本的に違っていたのである。

 そして第二次世界大戦が終った直後の中国革命では、毛沢東と中国共産党の指導する抗日民族統一戦線(人民戦線)があり、そして権力機関としての「人民政治協商会議」(人民評議会)があったからである。この「政治協商会議」の名において中華人民共和国と、中央人民政府の成立を宣言したのである(一九四九年十月一日)。こうして中国革命は勝利した。

 同じ頃、フランスでは第二次世界大戦は連合国が勝利し、フランスを占領していたナチスドイツは敗北してフランスから逃走した。そのとき、パリをはじめ主要都市にはナチスの占領に抵抗する運動と闘い、抵抗運動(レジスタンス運動)が激しく闘われ、その中から評議会(レジスタンス全国評議会)が生まれ、人民権力として存在するに至った。彼らは武装していた。ところが一方ではロンドンにドゴール将軍を中心にフランス亡命政権があった。権力はロシア革命、中国革命と同じ、二つ併行していた。ナチスドイツの敗北が決定的となった一九四四年八月二十四日から二十五日にパリのレジスタンス評議会は、連合軍の総攻撃に合わせて武装蜂起し、パリを解放した。同時にロンドンにあったフランス亡命政権の首領・ドゴール将軍もパリに帰ってきたそのとき、レジスタンス評議会はドゴールに服した。武器も全部ドゴールに渡した。このとき評議会は消滅し、フランス革命は敗北した。

 

          評議会に関する理論問題

 

 レーニンは一九二〇年に書いた『独裁の問題の歴史に寄せて』の一文の中で次のように論じている。

 「労働者階級と人民の権力、この新しい権力というものは、空から降ってくるものでなく、地下から沸いてくるものでもない。それは旧支配権力と併行して、旧権力に対抗して、旧権力との闘争のなかで発生し、成長するものである」と。つまり、評議会という名の人民権力は、大ブルジョアジーの支配権力に対抗する運動と闘い、人民戦線運動の中から必然的に生まれ、成長し、一定の歴史的転換期に爆発し、相転移する。こうして旧権力に取ってかわるのである。ここに弁証法的運動法則がある。

 またレーニンはロシアにおける十月革命の直前の一九一七年八月から九月にかけて執筆した『国家と革命』の中で次のように論じている。

 「二十世紀初頭の帝国主義段階における労働者の革命は、パリの労働者が生み出したコミューン型の革命でなければならない。そのロシアにおける具体化が評議会(ソビエト)である」と。

 そしてレーニンはロシア革命の勝利後の一九一九年三月に創立された第三インタナショナル(コミンテルン)の第一回大会における開会の辞で次のように発言した。

 「わが国のソビエト(評議会)制度は、労働者と農民の革命的独裁制度の形態と方式である。プロレタリア独裁というこの言葉は今まではラテン語だったが、ロシア革命の勝利によってそれはソビエト(評議会)という現代語にかわった。ここにプロレタリア独裁の実践的形態がある」と。

 さらに一九二〇年七月に開かれたコミンテルン第二回大会で採択されたその規約はレーニンの提案を採用して次の一節が規定された。

 「共産主義インタナショナルは、プロレタリアートの独裁、その形態たるソビエトをもって、人類を資本主義の支配から解放する唯一の可能な手段であると考える。そして共産主義インタナショナルは、ソビエト(評議会)制度を、プロレタリアートの独裁の歴史的形態であることを確認する」と。

 マルクスが提起し、レーニンが実現した労働者階級と人民の支配、その権力とはまさに「評議会」という直接民主主義であり、間接民主主義と愚民政治の投票による議会主義ではないということを、われわれ正統マルクス主義者と真の革命家はよく認識し、自覚して実践し、行動しなければならない。そのためにもわれわれは「賢者は歴史に学ぶ」(ビスマルク)ことを知らねばならない。その歴史とは第一次世界大戦後に発生した、ロシア革命の勝利と、ドイツ革命の敗北であり、第二次世界大戦後に発生した中国革命の勝利と、フランス革命の敗北である。ここにも「歴史は二度同じことを繰り返す」(マルクス)という先に明らかにしたとおりの実例がある。この二つの歴史上の実例の本質と教訓はただ一つ、マルクス主義の理論上の原則に忠実であったかどうか、マルクス主義の思想と理論に従って実践し、行動したのかどうか、ここにすべてがある。勝利したロシア革命と中国革命はマルクス主義の理論に忠実であった。敗北したドイツ革命とフランス革命はマルクス主義の理論上の原則を忘れてしまった。

 故にレーニンは明確に断定する。

 「革命的理論なくして革命運動はありえない。……先進的な理論に導かれる党だけが先進的指導者としての役割を果たすことができる」

 「大衆の自然発生的な高揚が高まれば高まるほど、前衛党の理論活動においても、思想・政治活動においても、組織活動においても、多くの、原則的な、目的意識性が決定的なものとなる」(『何をなすべきか?』一九〇一年―一九〇二年)

 

結 語

 

 ▼人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求に注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ。ここにコミュニティーがある。

 ▼コミュニティーでは階級支配は基本的には消滅する。共同体社会であるかぎり、そこには人民大衆、ただ一つの階級社会である。人民による人民のための人民の社会である。故にこのような社会(存在)が、そのような存在(環境)がそれにふさわしい人間を作り出していく。環境が人間を作り出す。新しい時代と新しい社会と新しい環境が新しい型の人間を生み出す。こうして人類の前史は終わり、人類社会は新たな闘いに向かって前進する。それは全宇宙との闘い、宇宙の開拓と開発の闘いである。

 ▼人類の歴史を見ればわかるとおり、一つの支配権力、一つの国家形態が永遠であったことは一度もない。歴史は常に運動し、変化し、発展し、転換して次々と新しい時代を作り出していった。そして歴史を見ればわかるとおり、変化は静かで一直線ではない。爆発と収れんは歴史法則である。歴史は必然性をもって前を目指すが、その過程では常に偶然が伴う。偶然は必然のための産物であり、偶然は必然のための糧である。そして必然の世界とは人民の人民による人民のための世界であり、より高度に発展したコミュニティー社会である。歴史は到達すべきところに必ず到達する。

 ▼人類が最初にはじめてつくった社会は、原始的ではあったがそこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティー国家と社会へ。ここから本当の人類の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて新しい闘いに進軍する。                                (以上)