2021年3月25日 №499

2021年3月25日 №499

《第三インタナショナル創立102周年を記念して》

 インタナショナルは社会主義運動と共産主義運動の生命である。マルクスの第一インタナショナル、レーニンの第三インタナショナルをみよ。新たなインタナショナル創設は国際共産主義運動にとって必然の法則である!

 

第三インタナショナル(共産主義インタナショナル)創立一〇二周年記念万歳!

日本共産党(行動派)中央委員会 書記局 国際部

 

はじめ

 今から102年前の191932日、十月社会主義革命を勝利させたレーニンの手によって第三インターナショナル(共産主義インタナショナル)が創立された。

歴史をみれば明らかな通り、第一インタナショナル、第二インタナショナル、そして第三インタナショナルはみな歴史の転換期に創設されている。現代世界もまた、資本主義が崩壊し、共同体から社会主義へと向かう偉大な転換期の中にある。そうした歴史時代が、新たなインタナショナルの創設を強く求めているのである。

実際今、世界各国で反乱と暴動が巻き起こり、資本主義体制を土台から揺さぶっている。こうした反乱と暴動こそ、インタナショナルの再建を求める労働者・人民の血の叫びである。歴史は今、新たなインタナショナルの創設を目指して激動し、爆発し、飛躍せんとしているのである。

現在、ギリシャ共産党の呼びかけで『共産党・労働者党国際会議』が開かれ、インタナショナル再建の論議がなされている。しかし、それは必ずしも成功しているわけではない。何故か? マルクス主義の旗、理論上の原則が鮮明に打ち立てられていないからである。第一・第二・第三インタナショナルの歴史をみれば明らかな通り、マルクス主義の旗が鮮明な時、その闘いは勝利し、左右の日和見主義に支配された時、その闘いは敗北している。

第三インタナショナル(共産主義インタナショナル)創立102周年記念に際し、あらためてインタナショナルの歴史、特に第一インタナショナル・第三インタナショナルの歴史を振り返り、その原則と必然性をしっかりと認識し、新たなインタナショナル創設への決意をうち打ち固めよう。

 

(一)マルクスとエンゲルスによる第一インタナシ

     ョナルの創立

 

インタナショナルの最初の創立者はマルクスとエンゲルスである。

1862年、ロンドンで第三回万国博覧会が開かれたが、この機会を利用し世界各地から社会主義者や革命家たちが集った。そして彼らは一堂に会して自らの実践と経験を交流し、いま世界中に高揚しつつある革命運動に正しく対処するため、世界の社会主義者・革命家が国際的に団結することの必要性を確認した。 

そして彼らは、国際革命運動の理論的・実践的指導者として、すでに不動の地位が築かれていたマルクスのもとに代表をおくり、社会主義者の国際的団結体たる『国際労働者協会』創立への参加、およびその『創立宣言』と一般規約の草案作成を依頼した。マルクスはエンゲルスの協力を得てこの要請をうけ入れ、全面的な指導に参加することになった。

こうして、世界で初めて生まれた万国労働者の団結の組織体たる『国際労働者協会』(第一インタナショナル)の創立大会が1864928日、ロンドンで開かれた。 大会はマルクスが起草した『宣言』と『規約』を採沢、 プロレタリア国際主義の赤旗を高々と掲げた。

 

第一インタナショナルの指導にあたって、マルクスは一貫して、労働者階級の国際的な固い団結は、何よりもその内部にける思想上の団結と統一をはかることにあると考え、実践と経験を歴史的に検証しつつ、理論と思想戦線における闘争に全力を注いだ。

 

 

だが、当時はまだ社会主義運動と労働運動にとっては草創期であった。故に、草創期につきものの現象、即ちその内部におけるさまざまな思想上の対立にマルクスは悩まされつづけた。当時、ブルードン主義やブランキー主義、バクーニン派がマルクス主義の主要な敵対者であった。 やがて発生した独・仏戦争(1870)とパリ・コンミューンの敗北(1871)という歴史的事件は、第一インター内の思想的対立を爆発させた。戦争に対する社会主義者の態度、パリ・コンミューンをどう評価するか、この問題は革命と社会主義をめぐる問題の中では基本的な原則上の問題であり、妥協は許されなかった。ハーグ大会(オランダ)において、バクーニン派は徹底的にマルクス、エンゲルスに反抗した。この大会は実質的に分裂を確認する大会となった。

第一インタナショナル、1876715日、フィラデルフィア(アメリカ)で正式に解散声明を発表した。こうして世界最初の国際労働運動の団結体は、その歴史的使命を終えて幕を閉じた。

 

(二)カウツキーの裏切りと第二インタナショナル 

   の崩壊

 

 1889714日、ドイツとフランスのマルクス主義者が組織した国際社会主義者の集会がパリで開かれた。この集会は、英雄的なパリ市民が蜂起し、あの人権宣言を発したフランス大革命百周年を記念する国際的な集りであった。この集りには世界各地から社会主義者、マルクス主義者が多数参加した。期せずして集会はその国際連帯の日となった。同時にこの団結と連帯を組織化しようとの熱意が参加者全員のものとなり、ついにこの日、インタナショナルの再建が決議された。こうしてここに『国際社会主義協会』(第二インタナショナル)の結成をみたのである。

当時のヨーロッパでは、マルクス主義者の大多数はマルクスの祖国ドイツにいた。同時に、ドイツの労働者階級は当時国際革命運動にとって手本となっていた。その結果、第二インタナショナルにおける中核的位置にはドイツのマルクス主義者が座ることになった。 そのなかで主要な理論家として活動していたのはカール・カウツキーであった。

カウツキーはドイツ社会民主党の指導者として実践活動を指導するとともに、いくつかの綱領的文書を書いていたが、その中にはしばしばマルクス主義的革命原則からの逸脱があった。かつてマルクスは18755月にドイツ社会民主党の左右両派が無原則的に合同したことをきびしく批判したが (『ゴータ綱領批判』)、ドイツのマルクス主義者、特にカウツキーはいぜんとして右翼日和見主義的思想を克服することができなかった。マルクス主義の革命的原則、プロレタリア独裁の理論と実践が決定的に欠落していた。 彼の日和見思想は当然組織面にも表れ、第二インターは長期にわたって国際的な中枢部もなく、指導的委員会もなく、宣伝物もなく、 綱領的文書も規約もなく、正式な名称もなかった。

エンゲルスは肉体的条件で第一線での活動が許されなかったが、新たなインタナショナルに深い関心をもち、理論と思想の面で常に活動に参加、しばしば第二インター内部の右翼日和見主義的傾向を批判した。だが、エンゲルスはこの闘いの途中で、すなわち189585 日に死亡した。75歳であった。 エンゲルスの死後、カウツキーと日和見主義者たちは公然と自分たちの思想を広め、これを第二インターの公認のものにしていった。

二十世紀に入ると国際革命運動の中心はロシアに移った。ロシアでは第二インターの右翼日和見主義と結びついていたメンシェビキを克服してレーニンとボリシュビキがロシア革命運動の主導権を確立していた。そしてレーニンは19078月に開かれた第二インター第七回大会に初めて出席した。レーニンは大会で革命的指導性を発揮し、日和見主義と対決。大会はレーニンの指導性をうけ入れて有名な反戦決議、即ち帝国主義戦争の開始に断固反対するとともに、実際に戦争が始まったなら、戦争を内乱に転化させ、社会主義革命に転化させるという『シュトゥットガルト決議』を採択、世界大戦が近づいた19121月には『バーゼル宣言』を採択した。この宣言では、近づく新たな戦争は帝国主義戦争であること。社会主義者は帝国主義戦争に反対すること。もし戦争が開始されたならば社会主義者は議会では戦時予算に反対投票すること。そして社会主義者は戦争を革命に転化させること、などをうたっていた。

 

1914728日、第一次世界大戦がはじまった。この戦争には主な帝国主義国家はみな参加した。この戦争は帝国主義国家によっておこされた最初の国際的衝突であった。

 

 



いよいよ実際に、紙と文字の上における『宣言』を具体的行動によって示す時がきたのである。だが、ドイツとフランスの社会主義者たちの多数は、帝国主義戦争のための国家予算に賛成票を投じ、戦時総動員法、ストライキ禁止法にも贊成した。それはたちまち世界の社会主義者に波及。それは彼らの運命すなわち第二インターの崩壊を決定づけた。

では、裏切りの思想、第二インタナショナルを支配した右翼日和見主義の経済的、階級的基礎は何であったのか。それは、第一に、資本主義の発展にともなって生まれた比較的高い賃金をとる熟練労働者、職場と労働組合内で資本と帝国主義の植民地収奪からのおこぼれによって育成された労働貴族、こうした社会層がまき散らす改良主義、である。 第二に、資本主義の発展と独占集中によって、プロレタリアートに「転落」した小プルジョアジー、動揺する小ブルジア的インテリゲンチア、これらの分子がプロレタリアートの内部にまきちらす日和見主義的動揺性と改良主義的幻想である。これらの分子は労働者階級の革命的立場と方法こそが混乱と破壊のもとであり、改良こそが唯一の正しい道だと信じ、時には独占ブルジョアジーよりいっそうひどく革命的プロレタリアートを憎悪する。第三に、ルンペンプロレタリアートと労働運動内の投機分子たちである。彼らはブルジョアジーの買収とおどしに屈してしまい、労働者階級に闘うことを放棄させ、安易な道を説き、堕落させ、ただただ目前の一時的な刹那主義に導いていく。

以上である。第二インターに参加していた各国の党は、事実上、交戦する個々の国々に分解し、すべての党が社会排外主義に転落していった。資本主義が発展すればするほど、右翼日和見主義と社会排外主義の経済的基盤は拡大され、強化される。第二インタナショナルの運命、その崩壊はこのことをはっきりと証明したのである

 

(三)ロシア革命の勝利と第インタナショナル

  (共産主義インタナショナル)の創立

 

第二インタナショナルの崩壊は、それにかわる新たなインタナショナルの創立をマルクス主義者に要求した。そしてこの要請に応え、新たなインタナショナル結成に決定的な指導的役割をはたしたのはレーニンであった。

だがレーニンは、ある日突然、新たなインタナショナルを結成したのではない。レーニンは第二インターの内部にあって、指導部を支配していた右翼日和見主義に反対し、革命的左翼の立場を守り、革命的分派の形成に努めていた。レーニンはツィンメルワルド運動のなかにあっ て、常に右派と闘い、左派をひきいて国際社会主義運動の革命 的統一に力を注ぎ、インタナショナルの再建に情熱を注いだのである。

そして、第一次世界大戦が開始され、第二インターが崩壊したとき、レーニンは各国の革命的社会主義者たちと連絡をとり、革命的左翼の形成と結集に力を注いだ。そして、1 91595日、ベルン(スイス)近くの小さな村、ツィンメルワルドに国際社会主義者を集め反戦会議を開いた。この会議は第二インターの裏切り者を非難するとともに、レーニンの指導下、新たな宣言『ツィンメルワルド宣言』を発表した。だが、この国際会議、即ちツィンメルワルド派の集りにも多くの矛盾があった。ドイツ・フランスを中心にした右派、レーニンとボリシェビキを中心にした左派、トロッキーを中心にした中間派があった。しかしレーニンはこのツィンメルワルド運動は内部に弱点はあるものの、これは前進の第一歩であり、新たなインタナショナル創立の第一歩である、とした。レーニンはこのツィンメルワルド運動のなかにあって、常に右派と闘い、左派を率いて国際社会主義運動の革命的統一に力を注ぎ、インタナショナルの再建に情熱を注いだ。

1917年、ロシアに二月革命の勝利がおとずれた。43日、レーニンは長い亡命活動からロシアに帰国、ペトログラードの駅につくや、ただちに有名な『四月テーゼ』を発した。その中で、党の名称をそれにふさわしく共産党とよぶように改めるとともに、崩壊した第二インターに代わる、新たな革命的な共産主義的インタナショナルの再建をよびかけた。

1917117日、ロシアにおける十月社会主義革命は勝利した。かくして、ロシアに人類史上はじめてプロレタリア独裁の国家が樹立され、社会主義は現実に実現された。このような事実、実践と経験にもとづく歴史的検証は、レーニン主義こそがマルクス主義の正当な継承であり発展であること、レーニン主義こそ生きたマルクス主義であること、レーニン主義こそ新たなインタナショナルの旗じるしでなければならないことを証明した。

19191月、いくつかの国々の革命的マルクス主義者が革命の都モスクワに集り、新たなインタナショナル創立の必要性を確認、その主導性をレーニンとボリシェビキに求めた。

191932日から6日まで、世界の主な国々の革命的マルクス主義者や党の代表がモスクワに集まり、新たなインタナショナル、『共産主義インタナショナル(第三インタナショナル)』の創立を宣言した。

 

大会は終始レーニンが指導した。レーニンは席上、社会主義革命とプロレタリア独裁に関する政治報告をした。大会はレーニンの報告を全面的に採択、これが第三インタナショナルの綱領となった。大会は各国のプロレタリアートと共産主義者、すべての革命家と党に、階級闘争を堅持し、プロレタリア独裁の理論と実践を堅持し、プロレタリア独裁の政治権力獲得をめざして決定的に闘争するようよびかけた。

レーニンは後に『第三インタナショナルとその歴史上の地位』(19194)という一文を発表し、次のように書いた。『第三共産主義インタナショナルの世界史的意義は、マルクスのもっとも偉大なスローガン、社会主義と労働運動の一世紀にわたる発展を総括するスローガン、プロレタリアートの独裁という言葉にいいあらわされるスローガンを、現実のものに変え始めたことにある』と。

  以後、資本主義の一般的危機の深化の中で共産主義インタナショナルの権威と力は増大し、各国にレーニン主義的・ボリシェビキ的党が生まれた。1922715日に創立された日本共産党もまた、直接レーニンと第三インタナショナルの導きのもとに結成されたものである。

1924121日、共産主義インタナショナルと国際プロレタリアートの偉大な領袖、レーニン主義の創始者レーニンは、永遠の眠りについた。レーニン亡き後、スターリンの指導のもと、第三インタナショナルの闘争はさらにいっそう強く展開されていった。

193991日、第二次世界大戦が開始された。1941622日、ヒトラーは突如170個師団の大軍をもってソビエトに対する進撃を開始。128日には日本の対米英宣戦布告によって太平洋戦争も始まった。戦争はすべての国とすべての共産主義者をまきこんだ。そして社会主義の祖国ソビエトでは資本主義の包囲とヒトラー・ドイツの背信的攻撃によってその生死をかけた死闘が展開されていった。

このような客観的情勢はインタナショナルの機能を著しく損なわせる結果をまねいた。ここに至って、共産主義インタナショナル執行委員会は、再びその機能が回復されるような客観的情勢が到来することを期待しつつ、1943515日、その組織を解散する決定を採択。共産主義インタナショナルの中央は必要な事後処理を行った後、610日、全面的にその機能を停止。この時からレーニンによって創立され、指導された輝く共産主義インタナショナル(第三インタナショナル)は一時歴史の舞台からその姿を消したのである。

 

結び

 

マルクスは第一インタナショナルを組織し、指導するにあたって、国際プロレタリアートに一貫して次のことを説いた。 人類の歴史は(原始社会が崩壊して以後) 階級闘争の歴史であった。近代ブルジョア社会においてはブルジョアジーとプロレタリアートの対立が基本的なものである。資本は国際的なものである。プロレタリアートは自己を終局的に解放するためには階級として独自に自分を組織するとともに、民族と国家の枠を超えて団結し、国際資本を打倒しなければならない。ブルジョア国家機関は破壊されるべきであり、プロレタリア独裁の国家機関におきかえねばならない、と。マルクスはこのように説いた後、有名なスローガン『万国の労働者団結せよ!』 を至るところにかかげた。

エンゲルスは、第二インタナショナル内の右翼日和見主義を批判し、革命的立場を擁識する時、常にマルクス主義の国家学説(国家は階級支配の道具である)と階級闘争の学説を忘れないように説き、理論上の原則を逸脱せず、思想的に強固な党、そのような労働者党の建設を強く訴えた。

レーニンが第三インタナショナル(共産主義インタナショナル)を創設し、指導する中で最も大きく力を注いだのは、「階級闘争を認めるだけでは共産主義者ではない。階級闘争をプロレタリア独裁にまでおし進めることができる時、初めて共産主義者たりうる」という思想であった。そしてレーニンは、ソビエトこそプロレタリア独裁の生きた実践的組織形態だとした。そして、ロシアという一国における社会主義革命の勝利は可能であり、必要であったが、これはあくまで、事の始まりであり、ロシア革命の最後の勝利は、世界的規模におけるプロレタリア革命の勝利である、とした。故にレーニンは、ロシア革命の勝利を世界のプレタリア革命の勝利へ結合するよう常に心がけた。第三インタナショナル(共産主義インタナショナル)に関するレーニンの学説全体にこの観点が常に貫徹されている。

インタナショナルとプロレタリア国際主義の革命的立場とその精神とは何か。インタナショナルの歴史と伝統に表現され、体現されているプロレタリア国際主義の革命的伝統とその原則とは何か。

それは第一に、マルクス主義国家学説、階級対立と階級闘争、プロレタリア独裁、に関する理論と実践であり、そのような確固とした思想を堅持する党の建設、である。

第二に、『万国の労働者団結せよ!』という階級的思想の堅持である。この思想は、一国内においては企業主義と経済主義、地域主義と産業別セクト主義、素朴な労働者主義と経験主義に対立する。そして、国際的には狭い民族主義と国益第一主義というブルジョア思想と明確に対立する。

第三に、一国における民主主義革命と社会主義革命の勝利の不可避性。および一国におけるプロレタリア革命の勝利を世界的規換におけるプロレタリア革命へと思想的・政治的・組織的 に結合させることである。

以上である。

社会主義者にとって、インタナショナルとプロタリア国際主義は社会主義運動と共産主義運動の生命であり、マルクスの第一インタナショナル、レーニンの第三インタナショナルの革命的精神は永遠にわれわれのものである。現代の歴史時代は、いま新たなインタナショナルの創設を切実に要求している。新たなインタナショナルの創設、それは国際共産主義運動にとって必然の法則であり、それは必ず実現されるであろう。

最後に、次のことを強調しておきたい。20世紀における人類史上最大の事件は、ソビエト社会主義の崩壊と、それに続く社会主義・共産主義運動の退潮と崩壊であった。世界中に「歴史の終わり」という言葉が広がった。だがしかし、人類の歴史は、哲学・科学的真理たるマルクス主義が示す法則に従って進む以外にない。今日の人類の歴史時代は、そのことをはっきりと証明している。歴史はそのために、絶対的真理としてのマルクス主義の純化、浄化、原点からの再出発、プロレタリア国際主義とインタナショナルの革命的伝統、ソビエト社会主義設40年の偉大な歴史の継承、その止揚を切実に求めているのである。

われわれは、第三インタナショナル(共産主義インタナショナル)創立一〇二周年を記念するにあたり、あらためて偉大なマルクス主義とプロレタリア国際主義の革命的伝統に心からなる忠誠を誓うものである。

第三インタナショナル(共産主義インタナショナ 

ル)創立一〇二周年記念万歳!                                

                     (以上)