2021年1月25日 №497

2020年12月25日 №496

《〈群衆〉ドキュメンタリー「国葬」や「粛清裁判」から何を学ぶか》

 ソビエト国民が真心から尊敬し、追悼した偉大なスターリンが一転、独裁者に「転落」したのは、スターリンは暴君であり、独裁者である、と批判したフルシチョフの「スターリン批判」(1956年2月14日)がすべての始まりであり、出発点であった!

 

複雑な歴史的事件を解明する教科書はマルクスの『ルイボナパルトのブリュメール18日』である。哲学原理(歴史科学)から出発し、演繹的に、すべてを関連させ、事の本質を追求せよ!

 

 ウクライナ出身の鬼才、セルゲイ・ロズニツァ監督の〈群衆〉3選、「国葬」「粛清裁判」「アウステルリッツ」が、11月14日から12月11日まで、東京で上映された。順次全国展開される。衝撃的なドキュメンタリーであり、各方面に大きな反響を呼んだ。中でも読売新聞(11月13日付)が詳しく紹介している。『特に頭と心を揺さぶったのは「国葬」で映し出された「スターリンを見送る群衆の顔」であった』と。

 近代の歴史の中で、あれだけの群衆、人民大衆が、自分たちの指導者の死に当たり、尊敬し、涙を流し、一目会いたく、お別れに駆け出す光景を見たことがない。この事実を見て、感動を覚えないものは真の人間ではない。ドキュメンタリーであり、すべては事実、ありのままの真実である。「百聞は一見に如(し)かず」である。スターリンがソビエト人民にあっては父と慕われ、一心に信頼と尊敬を受けた指導者であったかがよく分かる。

 それが一夜にして、独裁者に「転落」したのである。その本質が「粛清裁判」によく表れている。ソビエト政権転覆を企てた国内の旧勢力、外国と結んだ高級官僚や専門技術者、インテリゲンチャが多数逮捕された「産業党事件」である。最高裁特別法廷における首謀者との激しいやり取りや判決、そして街頭におけるボリシェビキの厳しい判決を求める波のようなデモは迫力満点であった。

 当時、「産業党事件」や「トハチョフスキー事件」など、スターリンの戦った「国内戦」は誠に厳しいものがあった。ロシア革命直後(1918年~1921年)にも外国干渉軍との国内戦があったが、スターリンの時代、それはレーニンの時代に次ぐ、第二次外国干渉軍との国内戦そのものであった。スターリンとソビエト人民は、それに耐え、社会主義を守り抜いたのである。階級闘争とは何か、を知っている戦う人々や、われわれにはよくわかる。

 フルシチョフは、1956年、後に、これをもって「スターリン批判」を展開、スターリンを独裁者、暴君呼ばわりした。すべてはここから始まったのである。すべては裏切り者フルシチョフの仕業であった。

 客観的事実や、当時の歴史時代を知れば事の本質が明らかになる。ここに唯物論哲学の科学原理がある。「粛清裁判」には、当時の厳しさが映し出されている。だからレーニンの時代は「戦時共産主義」が、スターリンの時代は大粛清とまでいわれた政策の厳しさがあった。すべては当時の歴史時代の産物であった。こうした国内戦に打ち勝ったがゆえに独ソ戦に勝利し、偉大な社会主義を防衛できたのである。それゆえに「国葬」には、スターリンに対するソビエト国民の思想感情が、よく表れていた。それが「スターリンを見送る群衆の顔」(読売新聞)となったのである。第二次外国干渉軍との国内戦はスターリンの戦いであり、ソビエト人民の戦いであった。スターリンとソビエト人民は一体であった。

 しかしドキュメンタリー映画の最後に専制の結果だとか、粛清の恐怖で支配した独裁者になぜ尊敬の念を抱くのか、という意味の字幕が提起されている。重大なテーマである。「存在が意識を決定し、意識が存在を支配する」というマルクス主義の哲学原理から見ない限り、この問題の解決は不可能なのである。 次が「国葬」や「粛清裁判」の訴えに対するわれわれの見解である。

 

スターリン批判の最大の材料たる、いわゆる「血の粛清事件」についていかなる階級的視点にたつのか、これこそマルクス主義者か否かの分岐点である。われわれは階級闘争と革命運動の立場から論じねばならない。

 

 一九五六年二月に開かれたソ連共産党第二十回大会でフルシチョフ(第一書記)は二月二十四日の秘密会議の席上、特別報告という形式を通じて、一九三〇年代に行われた、いわゆる「スターリンの血の粛清事件」についてふれ、多くの無実の人びと三百万人が犠牲になったと報告し、暴君、独裁者と批判した。

 ところが、この秘密報告は、一般に公表されていないにもかかわらず、六月四日にはアメリカ国務省によって全世界に公表され、国際的規模で衝撃をあたえた。そしてここから全世界の社会主義と共産主義運動に混乱と動揺、分裂と対立と激化が拡大していった。ここから国際的には全世界の革命運動、内部的にはソ連と東欧の社会主義の崩壊が拡大していった。

 フルシチョフとアメリカ国務省の奇妙な連携、その後の米ソ協力関係、そして社会主義の崩壊、一九九一年八月ブルジョア革命の勝利という、一連の歴史的経過は、まさしくレーニンの予告したとおり、ソ連国内に存在していたブルジョアジーの手先による陰謀そのものであった。レーニンは一九一九年十月に、はやくも『プロレタリアートの独裁の時期における経済と政治』という一文を発表して、われわれにつぎのように警告していたのである。

『社会主義とは、階級をなくすることである。プロレタリアートの独裁は、これをなくするために、できることはなんでもやった。だが、階級をいっきょになくすることはできない。そして、階級は、プロレタリアートの独裁の時期を通じて残っており、また今後も残るであろう。階級が消滅すれば独裁が不必要となるであろう。そして階級はプロレタリアートの独裁なしには消滅しないであろう。

 階級はのこっているが、プロレタリアートの独裁の時期には、どの階級も変形をとげた。階級間の相互関係も変わった。プロレタリアートの独裁のもとでは、階級闘争は消滅しないで、別の諸形態をとるだけである。……

 搾取者、地主と資本家の階級は、プロレタリアートの独裁のもとでも消滅しなかったし、またいっきょに消滅することはできない。搾取者は、うち破られたが絶滅されてはいない。彼らには、国際的な基盤が、国際資本が残っており、彼らはこの国際資本の一支店である。彼らには、部分的にいくらかの生産手段が残っており、金が残っており、巨大な社会的つながりが残っている。彼らの反抗力は、まさに彼らが敗北したために、百倍にも千倍にも増大した。国家行政や、軍事行政や、経済行政の「技術」は、彼らにきわめて、大きな優越性をあたえており、そのために彼らの力は、人口総数のうちに占める割合とは比べものにならないほど大きい。旧社会への復古の願望はいっそう強くなるばかりであり、旧社会の古い残りかすは根強い。倒れた搾取者と、勝利した被搾取者の前衛すなわちプロレタリアートとの階級闘争は、はるかに激しいものになった。』

 まさにフルシチョフはブルジョアジーの代理人であり、ソ連におけるその支店であり、機をうかがっていた裏切り者であった。それゆえに、ソビエトと全世界の革命運動の司令部・スターリンに、決定的な砲撃を加えたのである。この秘密報告はまったく、裏切り者の手段としてのデマであり、ねつ造であった。むしろこの事件は、スターリンによる第二次外国干渉軍との国内戦の闘いだということが明確になるのである。当時、一九三〇年代の内外情勢と、歴史的事実から出発してみよう。

 

 

 

 

 「粛清裁判」に映し出されたスターリンの戦いは「第二次外国干渉軍との国内戦」であった。スターリンは社会主義ソビエトのために戦い抜いた。スターリンは一貫して、レーニンに忠実であった。その事実を見よ。

 

▼一九三〇年代になってから、ヨーロッパ諸国では相次いで、クーデターや破壊活動、暗殺やテロ事件、売国行為や反乱事件、暴力や裏切りなど、あらゆる政治的陰謀が連続して発生していた。まさに全ヨーロッパに暗雲がたれこめていた。

 そして、その原因、その震源地はまさに、ナチス・ドイツとヒトラーにあった。一九二九年十月二十四日のニューヨーク株式市場における株の大暴落(暗黒の木曜日)に端を発した世界大恐慌は、資本主義世界を激動と革命の時代につきおとした。アメリカの国民総生産は三〇%も落ち込み、失業率は実に二五%を超え、四人に一人は失業するというみじめさで世界中が騒然となった。この機にファシズムが台頭したのである。

 一九三〇年九月十四日のドイツ国会総選挙でナチス党は十七議席から一躍百七議席を獲得、第二党となった。ナチス党は一貫して暴動、反共デマ、実力行動をともなった大衆行動で政治の舞台におどり出て以来権力をめざした。

 一九三三年一月三十日、ついにヒトラーはドイツ首相に就任。政権を獲得するや、二月二十七日にはベルリン国会議事堂に放火、共産党の反乱だとして、ディミトロフら共産主義者を逮捕(後日無罪となる)。二月二十八日には戒厳令を公布、三月九日には共産党の禁止を発令、非合法に追いやった。

     

▼ドイツで勝利したファシズムの政治的陰謀の広がりについて、一九三四年十一月にロンドンから発せられたUP通信の報道はつぎのようにヨーロッパ情勢を描写している。

 「ナチス・ドイツが新しいファシズム運動の震源地となり扇動と暴動は全大陸にひろがりつつある」として各国におけるファシストの集団を紹介した。フランスには覆面党、火の十字党。イギリスにはファシスト同盟。ベルギーには王党。ポーランドのポーランド軍事同盟。チェコスロバキアのヘンライン党とクリンカ衛兵団。ノルウェーのクウスィング党。ルーマニアの鉄衛団。ブルガリアの内マケドニア革命組織。フィンランドのラッポ。リトアニアの鉄狼団。ラトビアの火の十字軍。ソビエト国内においては、エス・エル(社会革命党)と産業党。

     

▼ソ連におけるエス・エル党は、一九一八年七月六日、ソビエト駐在ドイツ大使ミルバッハを爆殺、エス・エル党員十二人が逮捕された。八月三十日にはモスクワで工場の集会に出席していたレーニンを、エス・エルの女性党員ドーラ・カプランが狙撃、重傷を負わせた。一九二一年二月二十八日にはクロンシュタットで反乱をひきおこした。そして一九三〇年十一月には「産業党事件」も発生した。この事件はソビエト国内の重要な基幹産業に従事していた高級技術者・高級官吏・インテリゲンチアなどを味方にひき入れた大規模な組織が、反ソ反共で理論武装し、わざと大衆をそそのかして生産のサボタージュ、生産量の引き下げ、各種産業の発達を妨害、くり返し、大衆に対して遅刻や欠勤をすすめ、機械をこわしたり、食糧品の供出拒否、隠匿をはかり、さらには病原菌を家畜にまん延させたりした。彼らの組織は全連邦獣肉局、全連邦漁業局、全連邦缶詰局、全連邦野菜局、など国の重要機関に広く組織されていた。彼らはソビエト国内に食糧危機をもたらし、国民の不平不満をあおり、ソビエトロシアの転覆をはかり、決定的な時には外国の武力干渉をひきおこすのがねらいであった。この事件について、一九三〇年十一月二十三日付の『プラウダ』紙上にフランスの有名な作家ロマン・ロランや、イギリスの詩人ゴールズワージなど知識人が「もっとも忌まわしい反動がわれわれヨーロッパの国民を利用して、ロシアの努力を阻害しようとしているのは忍びない」と書いた。

     ◇

▼一九三三年十月―ナチスから資金援助をうけていたウクライナの民族主義団体「ウクライナ民族同盟」の手によってポーランドのソビエト大使館員アレクセイ・マイロクが暗殺された。

 同年十月―中国では蒋介石が百万の国民党員を動員、第五次掃共戦を開始、共産党討伐に乗り出す。同じ十一月にはインドで共産党の大弾圧、非合法が実施された。

 そして十二月にはルーマニアのテロ組織「鉄衛団」がルーマニア首相イオン・ドゥカーを暗殺。

     

▼一九三四年二月―フランスのファッショ団体「火の十字党」がパリで武装蜂起し反乱をひきおこした(二月事件)。

 三月―エストニアのファッショ団体「自由闘士団」がエストニアで反乱をひきおこした。

 五月―ブルガリアのファッショ団体がクーデターをおこして独裁政権をうちたてた。

 五月―ラトビアでも「バルト民族同盟」のファッショ団体がクーデターをおこして政権をにぎった。

 六月―ウクライナの民族主義テロ団体の「ウクライナ民族同盟」がポーランド内相ブロニスラフ・ピエラッキー大将を暗殺。

 ナチス派の「鉄狼団」がリトアニアで大衆反乱をひきおこした(六月)。

 七月二十五日―ウィーンでナチス系右翼が一揆をひきおこしドルフース首相を殺害した。

 十月九日―フランス外相パルトゥーとユーゴスラビア国王アレキサンドルがマルセーユで暗殺された。

 十二月一日―レニングラード・ソビエト議長であったソビエト共産党政治局員のセルゲイ・キーロフが暗殺された。犯人はレオニード・ニコライエフという三十歳の青年でエス・エルの残党であった。

 この事件についてアメリカのコネチカット州トムスンで発行されていたエス・エル系の新聞『ファシスト』紙の一九三五年三月号は「キーロフの息の根はとめられた、つぎの弾丸はスターリン自身を目的としなければならない。これは反乱のための信号である。われらの兄弟ニコライエフの放った弾丸の音は小さくはあったが全世界に反響した。ロシア人よ、ニコライエフの墓前に脱帽・敬礼せよ。不滅の英雄ニコライエフ万歳!」と書いた。そしてナチスと協力関係があり、ユーゴスラビアの首都ベオグラードにあった亡命ロシア人の組織「ロシア再生同盟」の機関紙『ザ・ロシェ』の一九三四年十一月一日号には「レニングラードのキーロフは除去されねばならない。われわれは南ロシアのコツシオルとポスティシェフを除かねばならない。同胞よ、ファシストたちよ、もし諸君がスターリンに手を出せないとするならば、ゴーリキーを殺せ、詩人デミヤン・ビエーニを殺せ、カガノヴィッチを殺せ」と書いていた。

▼一九三五年になるとソビエト国内では、地方都市でつぎつぎと奇怪な事件が発生した。ウラル地方のドンバスとクズバスでは炭坑事故や列車の転覆事故が発生。農村では家畜の伝染病が発生した。一部では輸送機関に事故が連続した。

 ソビエト国内では再び党内分派が組織され、各種反対派が動きはじめた。エス・エルの残党ファシストグループ、トロツキストグループなど、これらの反ソビエト連合戦線に対して、スターリンは果敢な闘争を展開した。これは形をかえた第二次の外国干渉軍との国内戦であり、レーニンが一九一八年から一九二一年に闘った外国干渉軍との国内戦と同様、スターリンもこれを闘い、これにうち勝ったのである。この勝利によってのみ、ソビエト社会主義は守り通され、社会主義は勝利したが、このときに摘発され告発され、有罪判決を受け、処断された多くの反革命分子のなかの代表的人物に、ソビエト赤軍参謀総長・陸軍元帥ミハイル・ニコライエヴィッチ・トハチェフスキーがある。トハチェフスキーはロシアの地主貴族の息子として生まれ、帝政陸軍の貴族将校となり、第一次世界大戦に参加、一九

 



一五年にドイツ軍の捕虜となった。十月革命の直前に脱走、ロシア革命後の一九一八年に赤軍に参加、数少ない高級教育をうけた指揮官として赤軍内では尊重されていった。当時ソビエト軍事人民委員(国防相)革命軍事評議会議長(参謀総長)であったトロツキーによって、一九二二年赤軍陸軍仕官学校の校長に指名された。

 一九三六年、イギリス国王ジョージ五世の大葬にソビエト軍事代表団長としてロンドンに渡り、そのとき元帥の称号をあたえられた。イギリスからの帰途、ドイツを訪問、ここでヒトラーと会見、ナチス党幹部と意見交換後フランスのパリについた。パリのソビエト大使館でおこなわれた公式のレセプションでトハチェフスキーが発言したいくつかの言動はその場に同席していたルーマニア大使館新聞課長エー・シャハナン・エセゼによって記録されていた。また同様にこの席にいたフランスの有名な政治記者ジュヌヴィエーヴ・タブイ女史は、その後出版した『人は私を女予言者と呼ぶ』という著作のなかでも記録されていたが、それはつぎのようなものであった。「トハチェフスキーは語る。ヒトラーは偉大な政治家だ、彼は天下無敵だ、ヨーロッパ大陸の次代の指導者はドイツであろう。ヒトラーとドイツを敵にまわしてはならない」と。

 一九三七年五月、元帥の部下であった、コルク、エイデマンの両将軍が逮捕され、ナチスドイツとの間で結ばれていた秘密文書が発覚。その頂点にあったトハチェフスキーも逮捕。一九三七年六月十二日軍事法廷で有罪判決をうけ処刑された。

▼第二次世界大戦中に、アメリカ軍の戦略諜報機関「OSS」の幹部としてヨーロッパ戦線で活動し、戦後はアメリカの「CIA」監察官になったジョン・H・ウォラーが書いた『見えない戦争』(日本語版は『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』として、二〇〇五年一月に、鳥影社が出版)では「スターリンの大粛清事件」の背景が明らかにされている。第二次世界大戦前夜のヨーロッパは各国の諜報・スパイ活動が入り乱れていた。その中でアメリカ情報機関はソビエト赤軍内の反乱計画もつかんだ。それは、ソビエト赤軍の最高幹部で、参謀総長のトハチェフスキー元帥がナチス・ヒトラーと手を結び、ドイツがソ連に進攻したときにあわせて、ソビエト内で反革命軍の蜂起を謀る、というものであった。

 だがこのことはやがてソビエト諜報機関も二重スパイを通じて掌握するに至った。そして独・ソ開戦前(一九三七年六月)にスターリンとソビエト政府は、軍と政府と党の内部に組織されていた、トハチェフスキーに連なる、旧帝政時代の生き残り組を中心にした反革命組織を一連の芋づる式摘発によって一網打尽にした。このことをブルジョアジーたちは「スターリンの大粛清事件」という。

 しかしこの問題の本質は、「OSS」のウォラーの記録にもあるとおり、これは明らかなように、まさに独ソ戦の前哨戦だったのである。スターリンはこの前哨戦に勝利したから、一九四一年六月二十二日にナチス・ドイツのソ連進攻にはじまる独・ソ戦の本戦に、ソビエト政権は党・政府・赤軍の三位一体によって勝利したのである。スターリンの粛清とは、ナチスと外国軍と結んだ国内の反革命軍に対する戦いであって、帝国主義による侵略的弾圧とは質が異なる。この階級的性格がわかるか、わからないか、これは革命か反革命かの分水嶺である。歴史が証明するとおりスターリンは偉大であった。

 

スターリンの「大粛清」について、英国のチャーチル首相らに語ったマウントバッテン伯の証言に注目せよ。

 

もう一つの歴史の証言について紹介しておきたい。それは次のような事実である。

 一九三九年九月一日にドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が開始され、やがて一九四一年六月二十二日には独軍三百万がソ連に侵攻、独ソ戦が開始されるその前日の六月二十一日、イギリスの首相チャーチルは何を思ったか、二人の重要な人物と昼食を共にして戦局の見通しについて語りあった。一人はイギリス新聞界の大御所たるマックス・ビーヴァブルック卿、もう一人は英国貴族出身の将軍で、軍人の世界では人望のあるルイス・マウントバッテン伯であった。この三人の会話のもようは、第二次大戦に関する歴史記録作家で、数々のベストセラーを出したフランスのドニク・ラビエールとアメリカのラリー・コリンズの共著『今夜自由を』のなかで紹介されているが、そのとき、ビーヴァブルックが、明日ヒトラーがソ連侵攻を開始するという情報をチャーチルに知らせると、チャーチルは既にこのことは知っていた。ビーヴァブルックは、これによってスターリンとソビエトは一カ月で崩壊するだろうというと、チャーチルは三カ月はかかるだろうという。そのときマウントバッテンは二人の説に反対してこういった。「私はロシアが負けるとは思われないのです。それとは逆にヒトラーの方が最後の段階に至り、独ソ戦は第二次大戦の転換点になるでしょう」と。ここでチャーチルは、なぜだ、と聞く。マウントバッテンは答える。

「まず第一に、スターリンの国軍粛清によって、ナチスが利用できるような内部的対立の芽がすべて摘み取られてしまっているからです。第二に、ロシアに長く君臨した王朝の末端に連なるものとして、これを認めることは私にとってつらいことではありますが、ロシア国民はいまや防衛すべきものを持っております。今後はロシアは全国民が闘うでしょう」と。チャーチルはこれを聞くと、少なくとも納得したようにはみえなかったが「さてどうなるか、そのうちにわかるだろう」といって、この話は打ち切りになった。しかし歴史はまさにマウントバッテンのいうとおりになったのである。マウントバッテンはなぜこのように本質的なことを、しかもソ連赤軍内部の模様をしっかりと知っていたのか。彼は海軍軍人から出発したが、大戦中は東南アジア連合軍総司令官、ビルマ戦線指揮官、インド総督、イギリス軍総参謀長などを歴任した知将で、直系の祖先はカール大帝であり、彼の父はドイツ皇族の出であり、ヴィクトリア女王のひ孫にあたり、血縁によって、ドイツのカイザー・ウィルヘルム二世、ロシアのツァー・ニコライ二世は伯父であった。そのため以前から両国と交流があり、それぞれの国の内部にはいくつかのチャンネルがあった。そのためにあらゆる情報を知っていたので、チャーチルや、ビーヴァブルックに対して確信ある発言ができたのである。

 第二次世界大戦と反ファシズム解放戦争の勝利と、社会主義祖国を守り通せたのは、まさにソビエト共産党とスターリンの、赤軍内のナチス一派、そのスパイ一味を摘発して粛清したことの結果としての勝利であった。このような階級的な視点に立つのか、立たないのか、ここにすべてがある。そして歴史は、この階級的立場に反したフルシチョフとその一派が社会主義を崩壊させ、資本主義に道を開いたのである。

 

スターリンの「大粛清問題」の本質はどこにあるのか。マルクスの『ルイボナパルトのブリュメール18日』は何と回答しているのか。その哲学原理から導き出される結論は何か。その核心は次の点にある。

 

 スターリンは闘ったのだ。ファシズムの反共・反社会主義のあらゆる攻撃に立ち向かって戦いぬいたのだ。当時の階級対立と階級闘争のすべてがスターリンとソビエト共産党の全行動に反映していたのである。

歴史上の事件を分析するとき、われわれはマルクスの著作『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』から学ばなければならない。あのとき、ボナパルトのクーデターという事件について、当時のフランスインテリゲンチアの代表、ビクトル・ユゴーは「すべてはボナパルトが悪い。すべてはボナパルトの責任だ」と叫んだ。マルクスは一方では、プルードンがとなえた小ブル左派の見解、すなわち「ボナパルトの行動はフランスの社会制度、政治情勢、当時の諸条件が生み出したものであり、責任は当時の社会制度にあった」とする客観主義と自然発生論をきびしく批判した。マルクスはこれらの意見に対し、「すべては階級闘争と階級対立の産物であり、ある人物の行動には当時の基本階級の要求が正確に反映しているのだ」と強く主張した。ボナパルトのクーデターには、当時のフランス農民の大ブルジョアジーに対する怒りが反映しており、ボナパルトはこの階級の怒りを代表して、決起したのである。同時にマルクスは、ボナパルトの運命を予測して、フランスの農民(小

 

 

 

 

ブルジョアジー)は大ブルジョアジーによって支配され、収奪されていく。それとともにボナパルトもやがて敗北すると語ったが、歴史は事実そのようになったのである。フランス革命はボナパルトの第二帝政の敗北とパリ・コミューンを経て、フランス第三共和制の大ブルジョア独裁へと移行する。結論はつぎの通りである。

 

 第一、当時の客観的諸事実、内外情勢とソビエト国内の諸情勢は、まさにそれは「第二次外国干渉軍との国内戦」そのものであった。あの当時の赤軍元帥・参謀総長のトハチェフスキーすらが、ナチスと結びついたブルジョアジーの代理人であった。そして「粛清裁判」が明らかにした通り、「産業党事件」には高級官僚や専門技術者、多くのインテリゲンチャはドイツなどの外国と結託した旧政権の復活を策謀した守旧派であった。厳罰の厳しい処置を講ずるのは当然ではあるまいか。これこそレーニンが予告していたとおりではないか。それほどまでにソビエト国内には外国干渉軍の手先が配置されていたのである。まさにソビエト人民とソビエトプロレタリアートは、四方八方からブルジョアジーとファシストに包囲されていた。そのなかでスターリンはただひとり、社会主義とソビエト権力を防衛せざるを得なかった。ソビエト権力とソビエト人民、ソビエトプロレタリアートのおかれていたこの厳しさが、ソビエト共産党とボリシェビキ、そしてスターリンの政策は当然厳しいものとなった。スターリンが守りぬいたのはソビエト人民、ソビエト権力、ソビエト社会主義、国際革命運動であった。レーニンと第一次外国干渉軍との国内戦(一九一八―一九二一)では千四百万人の犠牲者を生み出したが、スターリンはそれよりもはるかに少ない犠牲者で勝利したのである。

 第二、当時の諸事実、内外情勢とソビエト国内の諸情勢は、それは「プロレタリアートかブルジョアジーか、社会主義か資本主義か、戦争か平和か、もっともするどい戦いにスターリンは見事勝ちぬいたのである。レーニンの戦時共産主義は、スターリンの五ヵ年計画へ、共産主義土曜労働はスタハノフ運動へ、プロレタリア独裁プラス全国の電化はロシア的革命精神とアメリカ的実務主義と近代化へ、と引きつがれ、止揚され、発展させられたのである。スターリンの一九三〇年代における第二次外国干渉軍との闘い(いわゆる血の粛清事件)は、こうして勝利したのである。スターリンの戦い抜きに、その後のソビエト社会主義はあり得なかった。この意味で歴史の分水嶺であった。歴史を否定するものは自己否定に通ずる。必ずや彼ら自身も歴史によって否定されるであろう。歴史は止揚されていく。これが人類史の法則であり、これに反すれば自分自身が否定される。

 第三、当時の諸事実、内外情勢とソビエト国内の諸情勢は「まさにスターリンの闘いはマルクス・レーニン主義の擁護、ソビエト社会主義の擁護、ファシズムに反対する全世界人民の擁護、全世界にわたる民主主義革命の勝利のための闘い」であった。一九三〇年代におけるスターリンの闘いと勝利があったがゆえに、反ファシズム第二次世界大戦に勝利し、東ヨーロッパの社会主義は勝利し、中国革命、ベトナム革命、朝鮮において、キューバにおいて、そして全世界の民族運動の高まりを促していったのである。第二次大戦後、世界中の人口の三分の一、地球上の四分の一の領土に、社会主義が実現していったのである。その社会主義は、フルシチョフやブレジネフの裏切り者の「社会主義」とは違って、ソビエト人民が「これこそが本当の社会主義だ」と発言しているような、真正社会主義であった。中国革命を勝利させた偉大な指導者たる毛沢東もまた、スターリンをたたえ、ソビエト社会主義をたたえ、東風が西風を圧する新しい時代を称えたではないか。実際に革命をやり、実際に革命運動をやっている人はみなスターリンを称え、スターリンを継承し、スターリンを止揚しているのである。哲学歴史観ぬきには正しい理論と実践はない。正しい理論と実践ぬきに革命の勝利はない。現実に、スターリン批判者たちはだれ一人として革命を実際にやったことはなく、やっておらず、やれないではないか。彼らはみな、小ブルジョア的評論家にすぎず、歴史上から最後は消滅するあわれな人びとである。

 

結 語

 

 スターリンも止揚される。すべては継承・克服・発展される。

 

2002年度ノーベル物理学賞受賞者で東大特別栄誉教授の小柴昌俊氏は,今年、11月12日夜、94歳で死去した。小柴氏は「カミオカンデ」で、一九八七年、超新星爆発が起きた際に放出される素粒子「ニュートリノ」を世界で初めて観測。星の最期の解明に大きく貢献し、ノーベル賞を受賞した。氏は2003年2月17日付『日本経済新聞』「私の履歴書」の中で「私たち現代の科学者は古代ギリシャの古典哲学が予言していたことを科学的実験によって立証している」と語った。

 小柴氏の主張はすべては止揚されていく、という思想である。マルクスは歴史科学の中で、エンゲルスは「自然弁証法」の中で展開している科学思想である。スターリン問題は結局は「止揚」の問題に行き着く。

 宇宙と人類世界も止揚の法則による産物であった。約百四十億年前のビッグバン(大爆発)によって宇宙は誕生した。しかしそれは、その以前の世界、つまり無の世界、見ることもできない真空のエネルギー(暗黒物質)の運動が引き起こしたインフレーションによるビッグバンであった。宇宙とはまさに止揚の世界である。そしてこの宇宙は、過去と現代を引き継ぎながら、今なお、無限の世界で膨張し続けている。止揚は無限である。

 われわれ人類、人間もまた止揚の産物である。地球が生れ、生命が生まれ、生物となり、動物(猿)から人間は進化していった。そして人類世界、その社会もまた、生産力の発展に応じた生産関係のなかで成長、転化しつつ、今日の時代を迎えている。

 われわれ一人一人の人間個人を見てもわかるとおり、親があってわれわれがある。親を否定すればわれわれの存在自身が否定される。マルクス主義もまた止揚の産物である。レーニンは一九一三年に書いた『マルクス主義の三つの源泉』の中で「マルクス主義とは人類が十九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良の英知の正統な継承であり、その完成であった」と言っている。つまり、止揚することによって完成させたのである。

 そしてマルクス主義は、その物質的運動として、ヨーロッパにおける共産主義運動、第一インタナショナル。レーニンのロシア革命と第三インタナショナル。スターリンのソビエト連邦社会主義建設とコミンフォルムへと、その一系列として存在しつづけたのである。故に、真のマルクス主義は、弁証法的唯物論の運動法則の原理たる止揚の法則にもとづいて、この一系列を引き継ぎ、これを発展させ、前進させるため、内因論にもとづき、その運動の中で闘いつづけることである。これを否定すること、「スターリン批判」という名の否定をすることは、マルクス主義の否定であり、自己否定である。結果として、ブルジョアジーへの屈服であり、社会主義から資本主義への脱落である。現実にフルシチョフ以後のソビエトは、そのあとを引き継いだブレジネフ、ゴルバチョフ、エリツィンらによって、完全に資本主義に脱落したではないか。フルシチョフに従ったユーロコミュニズムも、中国の鄧小平とその後の党と国家も、日本の宮本顕治とその党も、みなフルシチョフと同じ運命をたどっているではないか。

 マルクスは『ヘーゲル法哲学批判・序論』(一八四四年)で、レーニンは『哲学ノート』(一九一四年)のなかで「否定するものは必ず否定される。否定の否定である」と言っている。現実にフルシチョフはスターリンを否定したが故に自分もまた歴史によって否定されてしまった。彼がその後存在したのはたかが十年であり、その最後は誠にみじめなものであったという歴史がこのことを証明している。

                                               (以上)